伯父のシベリヤ抑留体験記

伯父のシベリヤ抑留体験記

◆「凍原の思い出」~あとがき◆

◆「凍原の思い出」~あとがき◆    一九五四年(昭和二十九年)三月十七日と記憶している。  我々第七次帰還者を迎えに、日の丸の国旗を掲げた興安丸がナホトカ港を目指して静かに入港してきた。その日の海は波一つなく穏やかで、今...
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◆吉報を告げた上級中尉◆

一九五三年(昭和二十八年)八月、私はその頃しきりに日本のお盆を追憶していたのである。八月初旬のある夕方、「スタルシレチナント」<上級中尉>が我々の住んでいる旧クラスナヤラーゲルのバラックを尋ねて来た。日本人と面接をしたいとの連絡があって、私たちは旧衛門前の看守の詰所に集合するようにと言われた。
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◆夕日のバーニヤ◆

その頃私達の現場では、街のやや中央の住宅街に建設されていたマンションの基礎工事をしていたのである。その仕事は幅一メートル深さ二メートルの穴掘り作業で、それが出来次第に次は石切山から運び込まれた岩石を一輪車に積み込み板の上を運搬して掘り下げた溝に投げ入れるのである。
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◆ウォッカと女性ナチャニック◆

一九五二年(昭和二十七年)十二月の初め頃であった。我々三人はウォッカ工場に三日間、地下の古くなったケーブルの撤去工事のため派遣された。最終日は特に寒さの厳しい朝で、空には雲が一面銀色に垂れこめていた。ロシア人は厳寒を「マローズ」と呼んだ。
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◆月夜の晩の薪泥棒◆

バラックの薪が残り少なくなって、朝の食事の用意に支障があってはと、三人で薪の仕入れに行くことに決まり、身支度をした。綿の入った上着の上から五メートルぐらいのロープを胴に巻き付け、「タポール」<手斧>を腰に下げた。
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◆秋晴れの一日◆

その頃私達の仲間三人は、カンスクで一番大きなウォッカ工場の、廃液を郊外へ流すための、穴掘り作業をしていた。直径四〇センチ長さ四メートルの鋼管を連結する工事であった。
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◆今夜はソ連兵◆

 ある日、夜業の休憩時間にミキサー係のロスケが、我々三名に「パイジョン」<一緒に行こう>と言って外に出た。私は何か手伝うのかと思った。50メートルほど行くと、そこは人参畑であった。ロスケは我々にホフク前進せよと手まねをした。
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◆土採り作業とカルメック人◆

   我々三名が採用されたのは、カンスク市でも国営の大建設会社で、社長は囚人帰りのユダヤ人と聞いていた。会社の敷地には発電所、木工場、レンガ工場と土木部門などに分かれていた。我々の指定された仕事は、レンガ工場の土採り作業である。
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◆大きな「マダム」◆

やがて中から大柄で色白な、可愛い顔をしたマダムが二歳位の赤ん坊を抱えて微笑みを浮かべて出て来た。その時我々三名の日本人は真っ黒く日焼けした顔を一斉に彼女に向けた。マダムは先頭に構えていた私の足元を見るなり、「オオ!!カラシーワヤ、サポキ」<可愛らしい長靴を>と目を細くして、頓狂な奇声を上げて笑った。
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◆カンスク市への集団移動◆

 老人組みが中風のN氏を連れてカンスク市に転出したのは、一九五二年一月の頃と記憶している。カンスク市には大きな病院があり、入院する事も可能であった。その上、新しい情報も早く聞く事が出来た。
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