◆首かせの山羊◆

私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出~私のシベリヤ体験記』という一冊の本に仕上げました。当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るようにひたすら書き続けました。(挿絵も伯父が当時を偲んで描いたものです。)今は亡き伯父の思いを引き継ぎ、姪である私が顕して行きたいと思い公開しているものです。沢山の方々にこの体験記を読んで頂ければ幸いです。※今年は、以前この記事毎にコメントを下さった方とのやりとりを載せてみました。コメントを下さった「みーさん」は、ご家族と共に何年かロシアに滞在したご経験のある方です。私の伯父の日記の内容を膨らませ豊かにして下さり心から感謝して居ります。

◆第三章「地方人としての暮らし」~首かせの山羊◆

   インガシヤでの夏、晴天の日のことである。今日は仕事もないと班長の伝言で、我々バラックの四名は村のマダム三名と日本でいうギョウジャニンニクを採りに、部落の裏山に出掛けた。彼女等は毎年、その頃を見計らっては何人かで採取に来るとのことである。

四キロメートルほどを、雑木林や原っぱを歩いた。誰か場所を見つけて“トンキョウ”な声をだした。ターニャの声である。要領の分からない我々は、サーッと一斉にそこへ集中した。やがて三時間ほども歩き廻ったせいで、私も両手で二束も採ることができたのである。誰言うことなく、「アデハイ」<休息>となり、「アベード」<昼食>となって持参の黒パンを食べ始めた。誰も時計は持っていないので“十一時頃だ”とか勝手なことを言いながら、皆で笑ったのであった。

 やがて、彼女等のコーラスとなり、歌詞も分からぬ我々はただただ静かに聴きいった。夏の日も夕焼けに近い頃、三三五五と山を下り始めた。まもなく部落が見え始めた頃、私は牧柵の中で夕餉なのか、草を食む首かせの山羊を見たのである。こんな姿の山羊を祖国ではただの一度も見たことはない。珍しい情景だった。

わたしはその時、今は自由な自分に気付き、その山羊に一抹の哀れさを覚えたのであった。しかし、ソ連の人達にはあたりまえの風景なんだ、と私は自分に言いきかせたのである。

 

 

《出典》「凍原の思い出~私のシベリア体験記」 山本 剛
 
 
みーさん
みーさん

おじさまはご自分が大変困難な状況にあっても、いつも周囲に優しいまなざしを向けていらっしゃいますね。なかなかできないことです。

mimicoco
mimicoco

みーさん♪ そうですよね。よほど首かせの山羊を見て可哀相だと思ったのでしょうね。自分の身に照らし合わせて切なくなったのだと思います。

 
 
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