◆釈放された夜◆

私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出~私のシベリヤ体験記』という一冊の本に仕上げました。当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るようにひたすら書き続けました。(挿絵も伯父が当時を偲んで描いたものです。)今は亡き伯父の思いを引き継ぎ、姪である私が顕して行きたいと思い公開しているものです。沢山の方々にこの体験記を読んで頂ければ幸いです。※今年は、以前この記事毎にコメントを下さった方とのやりとりを載せてみました。コメントを下さった「みーさん」は、ご家族と共に何年かロシアに滞在したご経験のある方です。私の伯父の日記の内容を膨らませ豊かにして下さり心から感謝して居ります。

◆第三章「地方人としての暮らし」~釈放された夜◆

    釈放されて衛門を出た私は、職員に連れられてウプラウレーニヤ〈監理局〉に向った。周囲はすでに真暗で寒かった。呼吸をするたびに、鼻息がもうもうと顔をおおったのである。二十分歩いて監理局に着いた。

私は五年間の上金(あげきん)を三十七ルーブル(一万円余り)と三日間分の黒パン、少量のサーハル〈砂糖〉を受け取ってチマンダ〈トランク〉に詰めた。職員は私に「パイジョン」〈一緒に行こう〉と、先に歩き出した。私はそこにいた女子職員に「スバシーボ」〈ありがとう〉と挨拶をして玄関を出たのである。

夕方の寒さは一層厳しく、垢で汚れたラーゲルの被服に容赦なく突き刺さった。しばらく歩いて職員の家に着いた。

私は母屋に続く六畳間ほどの作業小屋に入れられたのである。土間には鉋屑が一面に散らかっていた。いろいろな道具や板切れが壁の棚の上に置いてあった。少し待っていると、彼はシューバー〈毛皮の外套〉を二枚持って来て、これを着て寝るようにと言った。小屋を出る時に彼は、「ここから出てはいけない」と注意して出て行った。

私は窓から入るかすかな明かりで、土間の鉋屑(かんなくず)を小屋の片隅にかき集め、その上にシューバーを一枚敷いた。もう一枚を掛けて、自由人になって初めての眠りについたのであった。

寒かった一夜も二枚のシューバーで大分助けられた。眼が覚めたのは、母屋で飼っている鶏の甲高い鳴き声によってである。

 朝7時頃だった。ドアが開いて、マダムが何も言わず薬缶とコップをにゅっと差し出してよこした。私はすぐに起き上がり「ドブレ、ウートロ」〈お早ようございます〉と挨拶をし、「スパシーボ」〈ありがとう〉と礼を言って受け取った。マダムは黙って出て行った。

私は、「この寒いのに、水をどうして飲める訳がないではないか」と一人言をいった。しばらくしてフト気がついた。それはマダムが私に洗顔をするための水をくれたのだった。その時、私は自分の早合点を大いに恥入らねばならなかった。

 

《出典》「凍原の思い出~私のシベリア体験記」 山本 剛

 

みーさん
みーさん

収容所を出てからもまた大変だったんですね・・・。

mimicoco
mimicoco

そうなんです。。これからがまた長い旅なのです

 
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