◆虱、南京虫との戦い◆

私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出~私のシベリヤ体験記』という一冊の本に仕上げました。当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るようにひたすら書き続けました。(挿絵も伯父が当時を偲んで描いたものです。)今は亡き伯父の思いを引き継ぎ、姪である私が顕して行きたいと思い公開しているものです。沢山の方々にこの体験記を読んで頂ければ幸いです。※今年は、以前この記事毎にコメントを下さった方とのやりとりを載せてみました。コメントを下さった「みーさん」は、ご家族と共に何年かロシアに滞在したご経験のある方です。私の伯父の日記の内容を膨らませ豊かにして下さり心から感謝して居ります。

◆第二章「ラーゲル生活あれこれ」~虱、南京虫との戦い◆

目的地ウルガルに到着したのは、白浦の自宅を出た一九四六(昭和二十一)年一月初旬から三ヵ月余り経った頃である。

身体もすっかり汚れて、途中の刑務所、中継所での烏の行水では、身体のムズムズするのは消えなかった。毎晩のようにバラックでは、お互いに恥も外聞もなく夕食後は一斉に裸になって、虱退治の行動開始となった。ロスケは虱はそれほど気にしないが、蚤は動物に寄生するものとして大変嫌っていた。私は下着へ群がる虱の大群に、四方八方爪の弾丸を浴びせた。着替えの荷物も略奪盗難に合い、総て亡くしていた。

 

内部から虱の攻撃、外部からは南京虫の襲撃と、毎日のように貴重な血液を吸い取られるのには囚人としての因果とはいえ、恨まずにはいられなかった。

シベリヤの冬は特に水が貴重で、ラーゲルの水は刑の軽いロスケが汲みに行く。馬橇にビヤ樽をつけた「ベスカンボーイ」〈監視のない囚人〉が川の氷に穴を開けて、時間をかけて汲み上げたもので、それは総て炊事場に運ばれた。バラックには飲み水の給水もなかった。飲みたければ雪を食えと言わんばかりで、洗顔等は誰もが忘れてしまっていたのである。

このような収容所の生活に、早く馴れることの必要性を自分から身に付けなければ、二年間のうちにあの世逝きとなるのであった。その域を超えたものは、いくら痩せ衰えても簡単には参らないラーゲルの「ラボーチ」〈労働者〉に育っていくのである。

それから数日後、やっと被服の交換があった。

 

《出典》「凍原の思い出~私のシベリア体験記」 山本 剛
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