◆第二章「ラーゲル生活あれこれ」
~生か死か、大尉の思い出◆
ウルガルでの路線工事は、かなりの重労働であった。先ず寒さや生活に慣れていなかったのと、食料不足が体力をすっかり消耗させてしまったのである。
その頃は年配の人達も同じ現場で就労していたので、病院に移送される人が多く、再び元気になってバラックに戻る人は少なかった。
我々囚人の生死はだいたい二年を境にして、それを越える者、越えられぬ者の二つに一であった。
ある日、日頃我々に信望のあった班長(元准尉)S氏が、毎日受け取る大小三通りの黒パンを平均にならして、それを配給することを皆に提案したことがあった。最初のうちは一応異議はなかったのだが、五、六日して「ハラショーアラボーチ」〈優良労働者〉達から、ぼつぼつ誰いうとなく不平の声が出てきたのである。“このまま続くと、我々は早く参ってしまう”という一級クラスの者達からの苦情であった。この方法もそう長く続かなかったのである。
ラーゲルでは、三ヵ月か四ヵ月めに「シモーン」〈身体検査〉があった。本部から軍医が来て囚人を裸にして、聴診器を当てるわけでもなく、全身をチラッと見ると後ろを向かせ、尻の皮膚をつまんで引っ張り、その延び具合で「オッペ」〈休養班〉におとして次の検査まで休養させるのであった。
そこでは多少油気のある副食物を与えられ、監視の罵声で一斉に寝せられるのであった。それは恰も養豚そのものであった。皆は検査の都度、オッペに落ちることを願っていたものである。私は五年の間に二度オッペの経験をしたが、それは収容所の塀の中での楽園であった。
私が最初のオッペの時、関東軍の将校S大尉と出会いなぜか話が合って、よく満州での生活や習慣等を聞いたことがあった。その時大尉は退屈をまぎらすため、一生懸命に西洋将棋の駒づくりをしていたことを思い出す。残念ながら大尉は故郷弘前には帰らぬ人となってしまったのである。
私が一九五四年三月「ダモイ」〈帰国〉のとき、ハバロフスク駅の構内から小石を一個拾って来て、弘前の駅で出迎えの婦人会の人に頼み遺族へと託したのであった。