◆火事と老人◆

私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出~私のシベリヤ体験記』という一冊の本に仕上げました。当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るようにひたすら書き続けました。(挿絵も伯父が当時を偲んで描いたものです。)今は亡き伯父の思いを引き継ぎ、姪である私が顕して行きたいと思い公開しているものです。沢山の方々にこの体験記を読んで頂ければ幸いです。※今年は、以前この記事毎にコメントを下さった方とのやりとりを載せてみました。コメントを下さった「みーさん」は、ご家族と共に何年かロシアに滞在したご経験のある方です。私の伯父の日記の内容を膨らませ豊かにして下さり心から感謝して居ります。

◆第二章「ラーゲル生活あれこれ」~火事と老人◆

 

 一九五〇年(昭和二十五年)一月、私の刑も残すところ一年足らずとなった。だんだん刑が軽くなると、囚人達は南のラーゲル「ウプラウレーニヤ」〈管理局〉に近い収容所の方に下って来るのであった。

私はアシノから監視兵と一緒に、馬橇でトムスクのラーゲルに収容された。そこの班長はドイツ人らしかった。全員で十五、六名の班であった。燃料の木炭造りで、白樺の薪を六センチ位の厚さに輪切にしたものを、小さく三角形に「タポール」〈手斧〉で割るのである。ノルマは幾立方メートルで計算した。

 それぞれ分担をきめ、薪を運んで台に乗せる者、切る者、割る者そして保管庫に運搬する者と、内容は大変単純であったが、たまたま運搬に当ると、これは身体の小さい私には重労働であった。

 保管庫は大きな二階造りの倉庫であるが、一階の左右が幾つもの仕切りになっていて、自動車が入って来ると仕切板を外して車に注ぎ込むのである。
木炭は大きな箱に入れて、二人で梯子を登って二階から下の枠にあけるのである。私は前になっても後になっても、足先や踵が箱にぶつかるのであった。ロスケ達もきっと背の低い私と組むのは嫌であったろうと思う。

 ある寒い日の午後のことであった。突然サイレンが塀の中で鳴り出した。私はすぐ休憩室の窓から覗いてみると、150メートルほど離れた「インクラ」〈木材の山〉の下の方から凄い音を立てて燃えてきたのであった。
 私はとっさに、野次馬気分で部屋から飛び出そうとしたところ、ロスケのスタレーカ〈老人〉が私に「ミシヤ、ニエハジー」〈山本、行くな〉と大声で止めたのである。後で他のロスケが言うには「現場に顔を出すと、嫌疑をかけられるから」ということであった。

 老人の言葉の意味が分かったとき、本当に良かったと心から感謝したのである。近々刑が終わるという矢先なのに、つまらない事でまたと思った時、背すじがザワッとした事を今でも忘れられない。
 火事はすぐに町から消防車が来て消火した。大事には到らなかったものの、誰か囚人の放火だという噂が流れた。

 

《出典》「凍原の思い出~私のシベリア体験記」 山本 剛

 

みーさん
みーさん

危機一髪でした。ロシア人に止められたのもおじさまのお人柄ですね。言葉が通じないとかえって人間の良し悪しがわかります・・・。

mimicoco
mimicoco

ロシア人の老人に感謝ですね。飛び出していって、嫌疑でもかけられようなものなら。。帰還を果たせなかったかもしれませんよね。。

 

 

 
 
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