◆朝鮮人脱走事件◆

私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出~私のシベリヤ体験記』という一冊の本に仕上げました。当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るようにひたすら書き続けました。(挿絵も伯父が当時を偲んで描いたものです。)今は亡き伯父の思いを引き継ぎ、姪である私が顕して行きたいと思い公開しているものです。沢山の方々にこの体験記を読んで頂ければ幸いです。※今年は、以前この記事毎にコメントを下さった方とのやりとりを載せてみました。コメントを下さった「みーさん」は、ご家族と共に何年かロシアに滞在したご経験のある方です。私の伯父の日記の内容を膨らませ豊かにして下さり心から感謝して居ります。

◆第二章「ラーゲル生活あれこれ」~朝鮮人脱走事件◆

 

 バム鉄道工事区間の、ウルガル、コムソモリスク間は六〇〇~七〇〇キロはあるらしかった。六〇一号ラーゲルを起点として、その間に大小十二カ所のラーゲルが東北に走っていると聞いた。

 六〇一号収容所では、鉄道線路を敷設するための道路建設を始め、トンネル工事、伐採住宅用壁工事、柾造りとさながら土木建築会社に等しい作業に従事していた。

 一九四七年の暮から翌年の春にかけて、近々重刑者達は北の寒い方へ護送されるという噂が流れた。私は五年の刑である。それに密航組の二、三年の刑の者もまだ班には多少いたので、私はまず内心では大丈夫かと思った。

 そのうちに移動が始まり、M中佐、S大尉(二十五年の刑)それに千島の日魯漁業株式会社の幹部三名のほか、朝鮮の学生連中、中国人など重刑者達の一団が、新しい労働力として北東に送り込まれたのであった。

 その後、我々も間もなく六〇三号に移動させられて、伐採作業に従事していたのである。

 シベリヤでの九月の「タイガー」〈原始林〉はもうすっかり秋であった。ある日の午後、突然監視兵の発砲に肝を冷やした。監視長は大声を張りあげて、作業中の我々に急遽、帰営を命じた。「ベストリーベストリー」〈急げ急げ〉とばかり縦隊列を作らせる。後尾の監視兵は背後からズドンズドンと銃声を連続して空に向けて打ち上げたのである。犬も興奮して異常なほど吠えながら噛みつかんばかりであった。我々には何が何だか分からぬまま、とに角我先にと走り出したのだが、体力がないので息だけが切れて、体はさっぱり前進しないのがもどかしかった。しかし監視兵のあまりの興奮とただ事ならぬようすに何か事件が起こったことは誰もが直感していた。我々は追われるままに二キロの道を息急き切って帰営したのであった。

 くわしい内容は誰も知らないまま不安な一夜を過ごした。翌日朝食を済ませ、皆で昨日の騒動を話し合っていたが、監視兵の狩り出しがバラックには廻って来なかった。

 しばらくして班長が来た。昨日は六〇五号ラーゲルで朝鮮人の脱走者がでたので、沿線の監視兵が捜索に狩り出されたため、今日は臨時休日となる事を告げた。そのうち、事件の内容はロスケの間から噂になって流れてきた。そんな訳で昨日のノルマはゼロとなって、明日の給食は「カランチン」〈罰則〉給食となり大変残念だった。

 事件は学生を含む十四名の朝鮮人が、三名の監視兵を殺し銃を奪って逃亡したのだが、食料被服調達のため、数日後他の収容所の倉庫を破った事で足がつき、近くにいる事が分かって警戒網に引っかかった。三名を除く十一名は即銃殺となり、逃げた一名はその後六〇五号ラーゲル付近の森林地帯から死体で発見された。他一名は逮捕され、再裁判のためハバロフスクに護送されたと聞いた。最後の一人の死体が馬の背にロープで縛り付けられ収容所に運び込まれた。所長は全員を集合させて、見せしめとしたのであった。

 私は白ロウのような彼の死体を見た時、物凄い戦慄を覚え、さながら西部劇を見た思いであった。

 

「凍原の思い出~私のシベリア体験記」 山本 剛
 
みーさん
みーさん

九月のロシアはもう冬です。生死が紙一重の抑留生活・・・。言葉が見つかりません。

mimicoco
mimicoco

みーさんには、その季節感がお分かりになるから。。伯父の体験の辛さが尚いっそう伝わるのでしょうね。読み続けて下さって 有難うございます。

 
 
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