◆月夜の晩の薪泥棒◆

私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出~私のシベリヤ体験記』という一冊の本に仕上げました。当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るようにひたすら書き続けました。(挿絵も伯父が当時を偲んで描いたものです。)今は亡き伯父の思いを引き継ぎ、姪である私が顕して行きたいと思い公開しているものです。沢山の方々にこの体験記を読んで頂ければ幸いです。※今年は、以前この記事毎にコメントを下さった方とのやりとりを載せてみました。コメントを下さった「みーさん」は、ご家族と共に何年かロシアに滞在したご経験のある方です。私の伯父の日記の内容を膨らませ豊かにして下さり心から感謝して居ります。

◆第三章「地方人としての暮らし」~月夜の晩の薪泥棒◆

シベリア抑留体験記    一九五二年(昭和二十七年)十一月、我々はカンスクに住むようになって最初の冬を迎えた。ある寒さの厳しい晩のことである。バラックの薪が残り少なくなって、朝の食事の用意に支障があってはと、三人で薪の仕入れに行くことに決まり、身支度をした。綿の入った上着の上から五メートルぐらいのロープを胴に巻き付け、「タポール」<手斧>を腰に下げた。これは我々ヤポンスキーが仕事をするときの年中通してのスタイルである。

さて目指す場所はレンガ工場の窯場である。その晩は月のとても明るい夜であった。場所はバラックから五、六〇〇メートル離れていた。勝手の知っている我々は、私が先頭になって真っ白なはらっぱを縦列でどんどん前進した。幾棟も並ぶ乾燥小屋の周囲一帯は、広くバラ線の塀で囲まれている箇所に突きあたった。

我々は焦らずゆっくり一人ずつ潜り抜け、中へと侵入していった。三〇メートルほど進んで窯の前に到着した。窯場は乾燥場のほぼ中央にあって、丁度日本の大きな炭火窯の恰好によく似ていた。我々が着いたときは、まだ窯に火は入ってなく、焚き口近くまで薪がバラバラに置かれていた。薪の種類は三種類くらいで、一メートルほどの長さに切ってあり、これらは全部生木であった。私はおもむろに胴からロープを外した。まずU字型に置き、その上に五本並べて寝転んだ。やっとの思いで担ぎ、背中を起こしたが、仲間の二人は立ち上がるのに全力をあげてもがいている恰好がおかしかった。自分もやっとの思いで立ち上がったくせに・・・。ようやく三人そろって歩き出したが、少し行くとこんどはバラ線をくぐり抜けなければならなかった。そこでロープをゆるめ、背中の薪を雪の上にドサッと置いた。それを一本づつ塀の外へ放り出したのである。その頃は全身すっかり汗をかき、再び、担ぎ直して腰を曲げながら、三人は一列になって、フーフー言いながら雪のはらっぱを進んでいった。この蟻のような姿を見ていたのは、月だけだったのではあるまいか。いささか気がとがめた。

やっとの思いでバラックに着き、思いっきり腹を抱えて笑いあった。あの時の二人は、今頃元気でいるだろうか?私は最近この原稿を書くようになってから無性に懐かしく思い出している。

 

《出典》「凍原の思い出~私のシベリア体験記」 山本 剛
 
 
みーさん
みーさん

泥棒でしたか・・・。なんだか労働のようですね。そして大変なはずがなぜかおかしさを感じます。叔父様のお人柄でしょうか。

mimicoco
mimicoco

みーさん♪ そう。。泥棒なの。。汗  なんかのんびりした時代だったのですね。 終戦から7年も経ったロシアでの生活。

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