◆日本人との出会い◆

私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出~私のシベリヤ体験記』という一冊の本に仕上げました。当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るようにひたすら書き続けました。(挿絵も伯父が当時を偲んで描いたものです。)今は亡き伯父の思いを引き継ぎ、姪である私が顕して行きたいと思い公開しているものです。沢山の方々にこの体験記を読んで頂ければ幸いです。※今年は、以前この記事毎にコメントを下さった方とのやりとりを載せてみました。コメントを下さった「みーさん」は、ご家族と共に何年かロシアに滞在したご経験のある方です。私の伯父の日記の内容を膨らませ豊かにして下さり心から感謝して居ります。

◆第三章「地方人としての暮らし」~日本人との出会い◆

言われた通り歩いて二〇〇メートルほどの左側寄りの所に、小さな理髪店を見つけた。久し振りで日本人に会えるのかと思うと、嬉しさが込み上げて来て理髪店のドアを力強くノックした。出て来た白衣の人はまさしく日本人であった。お互いに手を取り合い、ただただ胸が一杯で何も言葉は出なかった。

彼S氏は密航組で、二年の刑が明けここの部落に落ち着いた事、樺太落合町の王子製紙で理髪店をしていた事、兄は私の居た白浦の炭鉱で働いていた事等が分かった。彼は何かと私の面倒を親切にみてくれるのだった。私は釈放された時に支給された三十七ルーブルを、ウォッカや煙草にかえて、ここで三日間すっかり世話になったのである。

そのうち彼の勧めで造材山に入る事になり、街はずれにある事務所へ案内された。そこでは所長が一人机に向って仕事をしていた。理髪店のS氏は所長と顔なじみらしく、私の事を一生懸命頼んでくれたようであった。その時の私は食料もなく無一文だったので、何がしかの前金をくれるように話してくれたらしかったが、それは断られたようである。しかし、所長は私の事を現場の長へ宛てて、一筆添書を書いてくれた。もうじき山へ上がる車が出るので、それに乗るように言われた。そこで私は名残を惜しみながらS氏と別れ車に乗ったのであった。

《出典》 「凍原の思い出~私のシベリア体験記」 山本 剛
 
みーさん
みーさん

異国で日本人に会うと、それだけで安心します。ましておじさまの状況では、本当にこころ強かったことでしょう。

mimicoco
mimicoco

みーさん♪もそうでしたか?やはり同郷の人に会うと違いますよね♪私も遠くからお嫁にきたので、同郷というだけですぐ仲良しになってしまいます 😛

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