◆壁土造りと面会◆

私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出~私のシベリヤ体験記』という一冊の本に仕上げました。当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るようにひたすら書き続けました。(挿絵も伯父が当時を偲んで描いたものです。)今は亡き伯父の思いを引き継ぎ、姪である私が顕して行きたいと思い公開しているものです。沢山の方々にこの体験記を読んで頂ければ幸いです。※今年は、以前この記事毎にコメントを下さった方とのやりとりを載せてみました。コメントを下さった「みーさん」は、ご家族と共に何年かロシアに滞在したご経験のある方です。私の伯父の日記の内容を膨らませ豊かにして下さり心から感謝して居ります。

◆第二章「ラーゲル生活あれこれ」~壁土造りと面会◆

シベリア抑留体験記

 一九四九年八月末のことだったと記憶している。私はコムソモリスクの駅舎の建築現場で、ロスケの左官屋の班に入れられた。そこでは梃子(てご:手助けをする者)として雑役の仕事をしていた。班長は収容所でただ一人の日本人である私に、少しでも技術のいらない簡単な仕事をと思ったのか、監視もつけず、ロスケのアパートの立ち並ぶ通りを一キロほど離れた所から、溶かした石灰を馬車で運搬するようにと、使役馬を引いて来たのであった。

 総てがノルマなので、班長の指示にしたがって手綱を執っては見たものの、私は生まれてこの方馬の扱いなど全く初めての事だし、ましてロスケの国の馬なので、日本語で馭者(ぎょしゃ)をしても馬には通じないと思った。班長に話すと、すぐに私の仕事を壁練りの方に交代してくれた。

 この壁土造りは、砂と石灰泥を混ぜ合わせたものを、駅の待合室の天井にシャンデリアの丸型紋様(一メートル程度の型木の左端を中心として円を描く)を造るための壁土造りであった。その作業は八合のようなものに水を入れて、砂、石灰泥を混ぜてこねるのである。それが六割ほどできると、待合室の高い櫓(やぐら)に上っている左官屋が下げているバケツに、それを入れて置くのである。これが中々面倒で円を描く度に落ちる壁土の方が多く、ロスケは何回となく納得するまで繰り返すのであった。
 ある日壁土練りの仕事をしていると、私の左後ろの見張り櫓から、歩哨に「ヤポンスキー、ヤマモート」〈日本人、山本〉と呼ばれた。振り向くと、歩哨(ほしょう)は、おまえの「ジミリヤーク」〈仲間〉が来たよと言う。ふと見ると、柵の外に真っ黒に日焼けした若い日本の捕虜の兵隊が、馬車を馭しながらやって来たのである。荷台には二、三俵の麻のカマスを積んでいた。私はその時食糧でも運んでいるのかと、いささか羨ましく思った。
すると歩哨が、もっと近寄って話しをしても良いと手真似をした。彼と私は柵のそばに近づいて挨拶を交わした。

 彼は自分達は近々に帰れますよとニコニコして言った。私は“どちらの方ですか”と聞くとかれは“小樽”ですと言った。

 私は家族が樺太から引き揚げて増毛にいる事を説明した。そして元気でここに居る事の伝言を託したのであった。
 その時、彼はポケットからマホルカの包をバラ線越しに投げてよこして、後を振り返りながら立ち去った。
 私は思わぬ所で日本兵に出会った喜びと、その時面会させてくれた歩哨の厚意が嬉しくて、心から「ボルショイ、シバシーボ」〈大変ありがとう〉と櫓の上の歩哨に感謝したのであった。

 

《出典》「凍原の思い出~私のシベリア体験記」 山本 剛

 

みーさん
みーさん

さすがのロシア人も日本人の勤勉さにほだされたのでしょう。勤勉なおじさまだったと思います。

mimicoco
mimicoco

伯父は、明るくて真面目で勤勉な人でした♪ ウチの父とは違った温かさがあって、異国の極寒の地で強制労働に耐えた強さがありました。ロシア人に可愛がられたというのは、彼のそういう性格だったと思います。

 

 
 
タイトルとURLをコピーしました