◆第三章「地方人としての暮らし」
~土採り作業とカルメック人◆
我々三名が採用されたのは、カンスク市でも国営の大建設会社で、社長は囚人帰りのユダヤ人と聞いていた。会社の敷地には発電所、木工場、レンガ工場と土木部門などに分かれていた。我々の指定された仕事は、レンガ工場の土採り作業である。
班長はカルメック人の五〇歳位のオッさんで、彼等の仲間五名と我々の三名、総員八名が工場から三〇〇メートルほど離れた平地にレールを敷き、トロッコに両側から純土を積み上げると、工場までロスケの「馬車追い」が運搬するのである。往復で四〇分くらいかかった。その間に小休止やら次の準備をしておく。
工場では電気係、ミキサー係のロスケと娘さん達八名で仕事を分担し、レンガの裁断係、それを運搬台に並べる者、乾燥場まで手押車で送る者、最期は棚に並べる者と手順よく働いていた。休息時間はロシア娘のオシャベリや合唱で、とても賑やかで楽しかった。
ここでは若いカルメック人が我々日本人を信用していたのか、よく愚痴を聞かされたものである。聞くところによれば、彼等はカスピ海方面の温暖な地方から、ある日突然ロスケの兵隊に追い立てられるようにして三時間以内に駅に集められ、そのままシベリヤに送られ、この町カンスクに定住したとの事であった。土地、家そして羊も何もかも置いて来たとか、我々はそばにロシア人がいる事でもあり、心の中で同情しながら聞いたものであった。カルメック人は蒙古人によく似た顔をしていた。彼等は皆我々にとても良くしてくれたが、ロスケ達からは信用されていなかったように私には思われた。その時、つくづくソビエトは多民族国家である事に感心したものであった。
この土採り作業は二・三日もするとだんだん砂が混じるので急遽場所を移動する事になった。それが大変なことで、三〇メートルほどの長さのレールを、五〇メートルも離れた所へ動かす事は、かなりの重労働である。昼休みになると、カルメック人が中国産のお茶を我々にもごちそうしてくれた。

ロシア人より日本人を信用する気持ち、わかるような気がします。多民族国家は複雑です。

みーさん♪ そんなに日本人は信頼されていたのですね? 日本人は真面目で、囚人でも丁寧で几帳面なお仕事をしたからでしょうね?