◆第三章「地方人としての暮らし」
~吉報を告げた上級中尉◆
一九五三年(昭和二十八年)八月、私はその頃しきりに日本のお盆を追憶していたのである。八月初旬のある夕方、「スタルシレチナント」<上級中尉>が我々の住んでいる旧クラスナヤラーゲルのバラックを尋ねて来た。日本人と面接をしたいとの連絡があって、私たちは旧衛門前の看守の詰所に集合するようにと言われた。
当時ここには私とT氏、K氏、H氏の四人が住んでいた。私はその時ラーゲル監理局の職員か、警察官かと思った。
我々は一人づつ面会することになった。そのとき氏名、生年月日、犯罪条項、刑期、国籍などを聞かれたのである。その時上級中尉は我々に夢のような話をしたのであった。それは、来年三月に「ダモイ」<帰国>出来るので、首実験に来たのだというのである。彼の上級中尉は五十歳くらいで温和な目付きの軍人だった。私はその時、とっさに“これは嘘ではない”という予感がした。彼は「今年はウラジオ近辺から帰すが、君達は来年三月である」と言って帰って行った。我々仲間は手を取り合って喜んだ。
それから間もなく、ロスケ達が新聞『プラウダ』<真実>に“日本人ダモイの要請をモスクワでスターリンと日本人の政治家が話し合っている”と我々に教えてくれた。その頃はもうすべてのロシア人達は知っていたのである。それから我々は一緒にカンスクに出てきた。元の仲間は無論、道で出会う見知らぬ日本人ともしきりに話し合うようになって、ダモイを心から喜びつつ、その日の来るのを待っていた。
ある日の事、事務所でナチャニックのイワンに出会った時、彼は「ミシヤ、お前達日本へ帰れば、またチョルマ<刑務所>に入れられるのだろう」と両手の指を二本づつ井の字に重ね右目で私の顔をのぞいて見せたのである。私は首を左右に振りながら、大きく口を開け“「ナチャーニック」<所長>「ヤポン、ノーノー」<日本は違う>”と言い返したのであった。他の二人も一緒に強く否定した。そのとき私は、やはりソ連人はそんな風に考えるのだろうか?といささか悲哀を感じたものだった。またその反面インガシヤのナチャニックと別れる時も真面目に働いてノルマを上げてくれる我々日本人を帰国させるのが辛かったのか、また残念であったのかも知れない、といろいろお互いに複雑な思いをしたのであった。
そして今思うと、ある日本の作家が<共産主義は嫌いだがロシア人は好きだ>と言ったとか・・・・・。そんなことが思い出されるのである。

ダモイ!!良かったですね。所長さんはきっと、善良な働き者の日本人との別れが寂しかったと思います。でも帰国を喜んでくれたことでしょう。

みーさん♪ 一緒にダモイを喜んで下さって、ありがとうございます。職場にも恵まれて、共に過ごすロシア人が良い方が多く。。そういう意味では幸いだったのかもしれません。