◆厠(かわや)での出会い◆

私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出~私のシベリヤ体験記』という一冊の本に仕上げました。当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るようにひたすら書き続けました。(挿絵も伯父が当時を偲んで描いたものです。)今は亡き伯父の思いを引き継ぎ、姪である私が顕して行きたいと思い公開しているものです。沢山の方々にこの体験記を読んで頂ければ幸いです。※今年は、以前この記事毎にコメントを下さった方とのやりとりを載せてみました。コメントを下さった「みーさん」は、ご家族と共に何年かロシアに滞在したご経験のある方です。私の伯父の日記の内容を膨らませ豊かにして下さり心から感謝して居ります。

◆第二章「ラーゲル生活あれこれ」~厠での出会い◆

  ウルガルでの三月のこと。「マローズ」〈厳寒・氷点下五十五度以上〉のため、その日の労働は中止となったのである。明日は「カランチン」〈罰則給与〉にはなるが、この寒さではバラックで寝ている方が無難だと思った。

しかし、今夜はこの分だと薪も不足しそうだし、冷えて小便に起きる回数も増えるだろうといささか心配であった。私は防寒手袋の修理をすることにした。手造りの針(鋼鉄線)は太いが、それでも結構役に立った。

そのうちに私はトイレに行きたくなって、完全武装をしてバラックを出ると、濃い霧の中へ向かって行った。

厠は間口二間で、奥行は六間程度、真ん中は一メートル五〇センチ位の通路になっていて、両側は四〇センチ位の段になっていた。一メートル位の間隔で小判型に穴があいているだけだった。全然仕切りもなく、まことに見通しがよく、寒気はいやというほど突き刺さった。私はいつもの所に陣取って、右手で顎を支えて頑張っていた。その時、一人のロスケの年寄りが煙草をくわえて入って来た。「ヤポンスキー、チョドウマイ」〈日本人、何を考えている〉と言って斜め向かいの場所にしゃがんだ。私はすぐに「ヤー、ニエ、ドウマイ」〈私は何も考えてないよ〉と言うと、老人は“何も考えるな、考えると早く死ぬぞ”と言って、私の顔を見ながら煙草をゆっくりとふかしていた。その何ともいえないほのかな煙が私の鼻を刺激した。

老人は私に罪名、刑期を聞いた。私は即座に五十八条の十四項で五年、と答えた。老人は何も言わず、やおら立ち上がりズボンを上げてから、くわえていた煙草の吸い口を歯でちぎり、私によこして立ち去った。

老人は、私が哀れな男に見えたのであろう、その時私は老人の厚意がとても嬉しかった。これは寒い厠での、老人と私とのちょっとの出会いであった。

 

《出典》「凍原の思い出~私のシベリア体験記」 山本 剛
タイトルとURLをコピーしました