◆初めての銭湯◆

私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出~私のシベリヤ体験記』という一冊の本に仕上げました。当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るようにひたすら書き続けました。(挿絵も伯父が当時を偲んで描いたものです。)今は亡き伯父の思いを引き継ぎ、姪である私が顕して行きたいと思い公開しているものです。沢山の方々にこの体験記を読んで頂ければ幸いです。※今年は、以前この記事毎にコメントを下さった方とのやりとりを載せてみました。コメントを下さった「みーさん」は、ご家族と共に何年かロシアに滞在したご経験のある方です。私の伯父の日記の内容を膨らませ豊かにして下さり心から感謝して居ります。

◆第三章「地方人としての暮らし」~初めての銭湯◆

    釈放されてインガシヤに落ち着き、三ヵ月ほど過ぎた二月の寒い朝の事だった。隣にある四坪ほどの丸太小屋に、一人住まいをしている「ブルガジル」<班長>がやってきた。

『今日は「バーニヤ」<入浴日>なので、十時頃になったら皆で水を汲みに行くから、それまでに、この前のように持参する薪を用意するように』と命じて出て行った。

我々の宿舎であるバラックから東に五〇〇メートルほど行ったところに、部落の中ではわりと恰好のよい白壁の家があって、その家の母屋から十五メートルほどの場所に、一坪半位の建物があった。そこのマダムに班長が頼んで、一人三ルーブルで入浴させてもらうように約束していたのである。ただし、水汲みと薪は我々日本人が用意するのであった。私は初めての事でもあったし、その中では新人でもあった。私は土場から枯れた丸太を見つけて来て、四〇センチ位の長さの薪を切る手伝いをした。いくつかの薪の用意が出来たので、それを皆で小脇に抱え「タポール」<手斧>を持って、マダムの家に向かった。

つくとすぐ井戸からツルベで水汲み、それを「ウイドロ」<バケツ>で浴場の釜へ運んだ。三〇メートルほどの間を四人で往復したのである。井戸は屋根のついた巻き上げ式で、深さは十二、三メートルくらいはあったろう。ツルベは分厚い木製で頑丈な金具がついている。寒さのせいもあってか、かなり重く感じた。

 やがて小一時間もすると釜の水も満杯になり、薪割りも終了した。あとはマダムにまかせて帰って来たのである。
私は五年の間、日本人らしい入浴は望めなくても、せめて湯桶に五・六杯も使えたなら・・・と思っていた。それはラーゲルにいた日本人の誰もが思っていた事であろう。

冬の一日は早く夕日の傾く頃、マダムの息子がやって来た。彼は十五・六歳に見えたが、大人びた恰好で「ヤポンスキー、バーニャ、ガトー」<日本人、入浴の準備が出来たよ>と知らせに来た。誰かが「スパシーボ、シヤス」<ありがとう、只今>と言った。彼は続けて「ベストリー」<早く>と言って出て行った。入浴の順番は、T氏、K氏、とわたしの三人で二回めの組となった。

小屋の窓枠は分厚い氷に覆われていた。真っ白な湯気は光をも透さぬほどに立ちこめて、一層外気の厳しさを感じさせる。

私は二人に続いて半坪の狭い入り口から中へ入った。途端に、気分が悪いほどの蒸気が辺りに立ちこめていた。その時、着ていたシューバーもシットリと重く感じた。さっそく服を脱ぎ、震える手で第二のドアを開けて中に入った。ここのバーニャはサウナ式で大きな鉄板の箱を石と粘土で厚く包み、下から薪を焚いて熱した所に、箱の入り口から中に水を掛けて蒸気を出し、浴室を温めるのである。湯は釜の横にドラム缶が縦に連結されていて、煙が下を通っていた。これがシベリヤ式『家庭サウナ』であった。

私はゆっくり湯を使い、五年間の垢を初めて流したのであった。しかし踵の垢は真っ黒にしみついているので、いくら洗っても落ちなかった。これはシベリヤ生活の『証』として日本まで持ち帰ることになった。

五年間の垢を落として外へ出た瞬間、外気が一層身にしみたが身体が軽くなったような爽やかさを感じたものであった。

《出典》「凍原の思い出~私のシベリア体験記」 山本 剛

 

みーさん
みーさん

気持ちよかったでしょうね。素朴な良き日本人のおじさまを誇りに思います。

mimicoco
mimicoco

みーさん♪有難うございます。伯父は、きっと喜んでいることと思います(あの世で)‼踵は カッチカチになっていたんでしょうね。五年間お風呂入らないなんて、想像できないですね。

 
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