私は終戦後シベリヤ抑留者として、八年間の歳月を酷寒の地にて衣食住はもとより、あらゆる困苦に耐え忍んで生きてきた。
そして1954年(昭和29年)3月20日、興安丸に乗船、ナホトカから第七次引き揚げ帰還者として、祖国舞鶴港へ上陸したのであった。
以来、三十余年の歳月を、私はただ無我夢中で生きていたように思う。
年齢も現在は七十三歳となり、両親の存命以上に生を受けていることに、深く感謝しているこの頃である。
引き揚げて以来、私はいくつか自分のシベリヤでの体験を、孫達に書き残しておく必要を感じていた。それは私が何故シベリヤに連行されたかを、孫達に理解させておこうと思ったからである。
そのための準備として、折りに触れ新聞の切り抜き等、自分なりに用意はしていたものの、まったく文才のない私にはなかなか手をつける勇気も、また切っ掛けもなく、気にしながら今日まで過ごしてきた。
それが偶然今年の正月、冬休み中の二人の孫がウサギに食べさせるキャベツのことで父親にいろいろと聞いていた。その時、ふと私が「おじいちゃんもシベリヤにいたときに、キャベツの外がわの硬い葉を、夢中で食べたことがあったよ。」と言って聞かせた。それを見て娘婿がすかさず「おじいさんもそんな貴重な体験は、活字にして残しておいたらいいのに」と言った。その一言が私の執筆の動機となったのである。また、その日一月五日は奇しくも私が逮捕されて、豊原〈ユージノサハリンスク〉で判決を受けた日でもあった。
単純な性格の私は、その翌日から朝となく夜となく、貪るように、ひたすら書き続けた。不思議なもので書き出すと、次からつぎと頭に浮かんでくる。とにかく書きまくった。年をとった最近は、手がこわばって文字を書くことが苦痛だったが、それもいくらか解消されたように感じるこの頃である。