◆入院とユダヤ人◆

私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出~私のシベリヤ体験記』という一冊の本に仕上げました。当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るようにひたすら書き続けました。(挿絵も伯父が当時を偲んで描いたものです。)今は亡き伯父の思いを引き継ぎ、姪である私が顕して行きたいと思い公開しているものです。沢山の方々にこの体験記を読んで頂ければ幸いです。※今年は、以前この記事毎にコメントを下さった方とのやりとりを載せてみました。コメントを下さった「みーさん」は、ご家族と共に何年かロシアに滞在したご経験のある方です。私の伯父の日記の内容を膨らませ豊かにして下さり心から感謝して居ります。

◆第二章「ラーゲル生活あれこれ」~入院とユダヤ人◆

 

  1948年「マローズ」〈厳寒〉のある日のこと、私は足の手術(底まめ)のため、監視兵に伴われてびっこを引きながら門を出た。

六〇一号はトンネル工事の本部でもあり、地方人も生活している集落であった。病院はラーゲルから五〇〇メートル位の所にあった。

厳寒に入ると、廊下一面にむせかえるような「チョルマ」〈刑務所〉に似た臭いがしたので、またかと思った。受付も終わって通された病室には、日本人も入れて五、六名が入院していた。私は指示されたベットに腰をおろした。仲間のT氏がいて”山本さん、あんたの知っているSさんが、少し前になくなったヨ”と言った。Sさんは同郷人なので、私は痛い足を引きずりながら行ってみた。紛れもなくSさんであった。可哀相にと思いながら合掌をして心から冥福を祈った。

翌日私は軍医の診察を受けた。真赤に腫れ上った私の足をみるなり、早速手術をするらしく助手に指示した。私の足の底まめは、中学時代から軍隊時代と今度で三度めだったので、その激痛のほどは良く知っていた。

やがて私は手術台に俯伏せになり、言われるままに両手を広げて観念はしたものの、両手と両足奴等四人にガッシリと押え付けられた。軍医は注射もせずに、いきなりメスをいれたのであった。私は全身に力が入った。あまりの苦しさにうめき声を上げて、手術台に満身の力でしがみついた。手術が終わった時はすっかり力が抜けて、全身にビッショリ汗をかいていた。

軍医の荒治療もひとまず終了、ロスケの助手に担がれて、私はベットに戻りホッとした。その日の「ウージン」〈夕食〉はロスケが運んできてくれた。黒パンと芋のかけらの入ったスープ、それに米の「カーシャ」〈おかゆ〉、それはしゃもじで一杯ほどのものであった。カーシャは家を出てから初めて口にしたので、私にはなつかしい御馳走であった。

隣りのベットにいたのは中国人の王さんだった。温和な感じの彼は、いつもニコニコしている。この人が何をして捕まったのだろうか、と私は変な同情をしてしまった。彼のロシア語はなかなか上手であった。私は掌に『孔子』『東京』などと漢字を書いて会話をしながら退屈を紛らしていた。

三日ほどたつと、食事は食堂でする事になった。廊下に出ると湯気が立ち込めて、少し離れると人の顔の見分けがつかないほどだった。

その頃、私と廊下で度々行き合うユダヤ人の若者がいた。彼はいつ見ても青白い顔をして、廊下のスチームに胸を押し当てるようにしていた。可哀相に彼は肺病だったのである。
私の入院も一週間たち、包帯の足からは異様な臭いがしてきた。考えてみると私の足は手術後にそのまま投げられ放しで、何の処置もされていなかったのである。ドクトルが回診に来て、すぐ助手に処置をするように命じた。しかし幸いにして傷は順調に回復していた。

私にすれば、もう少しこのままの状態で静養していたいと思ったのだが、残念だった。

ユダヤ人の若者はあの時、十年の刑だと言っていたが・・・。今頃どうしているだろうかと、フト思うことがある。

「凍原の思い出~私のシベリア体験記」 山本 剛

 

 

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