◆第二章「ラーゲル生活あれこれ」~伐採での掛け声◆
六〇一号でのこと、それは真夏の出来事であった。我々東洋人の囚人は四組、その他外人達が五組である。現場までの二キロくらいを犬に監視されて、大きな二人用の鋸斧を担ぎ重い足どりでやっと作業区域に到着した。
監視櫓にはすでに歩哨(ほしょう)が上がっていた。シベリヤも七月にはかなり暑い日が続いた。我々がやせた上半身を真黒にして、おおきなパンを得るために真面目に働くことはロスケ達も認めていた。
むんむんと草の熱気もひどく全身から汗が噴出すのだが、手拭も泣く下着が汗拭きに早変わりするのである。払いきれないほどの蚊の大群が我々の貴重な血を吸い。バラックに帰ればまた「クロぺ」〈南京虫〉に悩まされる毎日は、此所シベリヤ大地に生きる者の宿命であった。
伐採用の二人で使う鋸は長さ2メートルもあって、大木を倒す時はお互いに腰をまるめ、上半身を曲げながら呼吸を合わせて引き合うのである。そのために腹もかなり空いたものであった。それでなくても毎日が空腹なのに、昼間はただ一杯の実のないスープだけであった。日本人であれば昔から<杣夫の一升飯>と言ったものなのに・・・。
年寄りと力の弱い者は払った大きな枝を集めて、その場で焼却する仕事なのである。大木の元の方の枝はとても大きくて、引張って集めるのも結構な重労働であった。しかしパンは最低の七五〇グラムにきまっていた。私はこの仕事は一度も当たったことがなかった。
ある日朝鮮人組の人達が、何か食べているのに気がついた。それは赤松の幹の皮の下に真白な層があって、それを剥がしてスルメのようにして食べていたのである。食べ物の情報はすぐ伝わり、それ以来皆が真似をして、その場でガムのように噛んだり、持ち帰ってスルメや煎餅のような感じで口寂しさを慰めたこともあった。
伐採も日がたつにつれ慣れてはきたが、足がだんだん重くなるのには閉口した。私がおもしろく感じたことは、樹を倒す時の危険を知らせる掛け声であった。それぞれの国によって違うので、とてもコッケイに思った。日本人は”危ないぞ” 朝鮮人は”ノモカンダ” ロスケは”ヴォイシエ”と、私には聴こえたのである。しかし、中国人の声を一度も聞かなかったのは残念であった。

勤勉ですよね、日本人は。うちの夫もモスクワ在任中、ロシア人から「なんでそんなに働くんだ。ワイロでももらえるのか」と言われました。こういうお国柄ゆえ、働き者の日本人は重宝され余計に帰国が遅くなったのでは・・・。叔父様、ひもじかったことでしょうね。シベリアでお食べになったパンは黒パンでしょうが、酸っぱくて硬くて私は苦手でした・・・。ざっと今までのアップして下さった文章を読ませていただきました。叔父様はお元気でしょうか。2001年から三年間、モスクワで暮らし「中国人か?(キタヤンカ?)」と問われ「ヤー イポンスカヤ(私は日本人女性)」と答えた時のロシア人の「オ‐チンハラショー!(それはとても良い!)!」という答えがとても良く理解できました。こんなに誠実にソ連のために働かれた日本人の方々がいらっしゃったんですから。ロシア赴任したものとしては本当にシベリア抑留者の方々には感謝の気持ちと申し訳ない気持ちでいっぱいです。叔父様によろしくお伝えください。今ロシア在住の日本人も同じ気持ちと思います。

生前、伯父と話したときに黒パンの話をしていたような。。やはり酸っぱくて苦手だったと言っていた記憶があります。伯父は、次男が生まれる一ヶ月前に亡くなりました。とても辛い想いをしたのに。。温厚で明るい伯父でした。
伯父の書いた文章を今、あらためて読んでみると、とても辛い状況なのにそんなに悲惨な感じがしないのは、私だけが感じることでしょうか。。文章にも伯父の温かさ伝わってくるのです。