◆第三章「地方人としての暮らし」~五度めの大晦日◆
一九五一年(昭和二十六年)十二月、わたしはシベリヤで五度めの大晦日をここインガシャで迎えたのである。
十坪ほどのバラックは大晦日と言っても何の変化もなく、夕暮れの部屋の中央のテーブルには、皿の灯油の薄明かりが互いに向き合って寝台の上にあぐらをかいて食事をしている仲間の姿が、うしろの壁にそれぞれの大きさの影を映していた。
皆、祖国での我が家の年取りを思い出しながら懐かしそうに話し合っていた。私の夕食の鍋は、まだ他の鍋と一緒に暖炉の上でグツグツと音をたてていた。今日のはいつもの芋汁より、少々張り込んで買って来た肉の入った塩汁であった。
部落の駅の近くに三坪ほどの「キヨスク」〈売店〉があった。そこには一日に二度、近所からマダムが来て一時間位店を開けるのである。酒の好きな何人かは、手廻しをよくして買って来て、そのウォッカをさも美味しそうに呑み、語り、食べていた。こんな毎日の生活の中では偏食の繰り返しである。田舎のキヨスクなので目新しい物はめったに入らなく、我々は主食の黒パンを買う位のものであった。
キヨスクは時には部落の集会所でもあり、ロスケのマダム達が大声で喋り大声で笑う場所でもあったようである。
大晦日の夜、それぞれの食事の済んだ頃、F氏が“さぁ、昨日の続きでも始めるか”と皆の顔を見回した。彼は樺太真岡の出身で厚い眼鏡をかけた人だが、講談がとても上手でいつも皆を楽しませてくれたのである。三日位前から「宮本武蔵」を語ってくれていたのであった。とても素人とは思えないほどの語りで、身振り手振りも交えて実に迫力のある名講談であった。一同はシンと静まり返って、夜のふけるのも知らずに彼の熱演に聴き入ったものである。
年も明けて五月頃になったある日、年寄り連中の四人グループはお互いに身体を気づかって隣の都市のカンスクへ移って行った。その一人に勿論F氏も含まれていた。
それ以来、彼等と再び会う事はなかったのである。

5回もロシアで年越しされたとは・・・。しかし不自由な中でもいろいろ楽しみを見つけて生きていく、その逞しさに人間の逞しさと心の豊かさを感じます。

みーさん♪
伯父も悲観的に考えていると自分自身の身がもたないと思ったのではないかと思います。ささやかな幸せに感謝もしていたと思います。