◆『リンゴの歌』が電波にのって◆

私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出~私のシベリヤ体験記』という一冊の本に仕上げました。当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るようにひたすら書き続けました。(挿絵も伯父が当時を偲んで描いたものです。)今は亡き伯父の思いを引き継ぎ、姪である私が顕して行きたいと思い公開しているものです。沢山の方々にこの体験記を読んで頂ければ幸いです。※今年は、以前この記事毎にコメントを下さった方とのやりとりを載せてみました。コメントを下さった「みーさん」は、ご家族と共に何年かロシアに滞在したご経験のある方です。私の伯父の日記の内容を膨らませ豊かにして下さり心から感謝して居ります。

◆第三章「地方人としての暮らし」~
『リンゴの歌』が電波にのって◆

  一九五二年(昭和二十七年)八月、異常にむし暑い日だったと記憶している。夕食をすませて、退屈していた私は寝台の上に横になり脇戸棚に出入りするネズミの駆除方法を考えていた。

そんな時である。「ブルガジル」<班長>が何か毛布に包んだ箱型の物を抱えて入って来た。彼は部屋に入るなり“オイ、皆起きれ!”と声をかけた。我々は、また今夜も貨車が入るのかと思い、一斉に班長の方を注目した。彼が抱えていた物は、小型の古めかしいソ連製のラジオ受信機だった。皆は“オッ”と声を上げて、何年振りで見るラジオをジッと見つめた。班長はつまみのダイヤルを右、左とまわした。途端に流れて来たのは、『リンゴの歌』であった。日本語の甘い歌声・・・、お互いに顔を見合わせ声を上げて、一斉に拍手して喜んだのである。

その頃の我々の頭の中では、東京都の戦災の跡、もしくは知っている人は広島・長崎の原爆の惨状などであったはずである。私はその瞬間、謀略放送ではないか?と気を回した。同時にまた祖国日本で、こんな呑気な歌を唱えるのだろうか?と不思議な感じすらした。

班長は回りのロスケ達に気がひけるのか、包んで来た毛布を被って聞くようにと言った。皆は暑いのを我慢して、一斉に毛布の中に頭を突っ込んだのである。

そのラジオは班長が我々に聞かすべく、ロスケの知人から手に入れて来たのであった。

暑い夏の夜に祖国を偲びながら、夢中で聞き入ったひと時が忘れられない。

 

《出典》「凍原の思い出~私のシベリア体験記」 山本 剛

 

みーさん
みーさん

ロシアでこの歌を聞かれたんですか。懐かしく、帰国したいと思われたことでしょう・・・。

mimicoco
mimicoco

一瞬、謀略放送だと思ったという伯父。この時点で戦後7年たっているというのに、伯父の中の戦争はまだ終わってなかったのでしょうね。
ちょっと胸が痛くなるようなこの一節です。

 

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