◆ラーゲルの塀修理◆

 私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出~私のシベリヤ体験記』という一冊の本に仕上げました。当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るようにひたすら書き続けました。(挿絵も伯父が当時を偲んで描いたものです。)今は亡き伯父の思いを引き継ぎ、姪である私が顕して行きたいと思い公開しているものです。沢山の方々にこの体験記を読んで頂ければ幸いです。※今年は、以前この記事毎にコメントを下さった方とのやりとりを載せてみました。コメントを下さった「みーさん」は、ご家族と共に何年かロシアに滞在したご経験のある方です。私の伯父の日記の内容を膨らませ豊かにして下さり心から感謝して居ります。

◆第二章「ラーゲル生活あれこれ」~ラーゲルの塀修理◆

 

   シベリアに渡って二年めの秋を迎えた、六〇三号のことであった。
ある日私たち十名ほどは道路工事の仕事でなく、監視兵のもとで収容所の板塀の修理に廻された。

 このころは身体もすっかり栄養失調になっていた。年中着ている「ブシラータ」〈綿入れ上着〉を、かなり重く感ずるようになった。

ひいては虚脱と思考の喪失した人間となり、無意識に黙々と働き続ける姿は、正しく“生ける屍”といったところである。不潔感も次第にうすれ、顔は汚れ、痩せこけてくぼんだ私の目には、何も彼もが空しく見えた。 

 この日の仕事は五、六名の者と一〇〇メートルほど離れた下手の傾斜地から、材料になる三メートルほどの落葉樹の皮板を運搬するのであった。他の仲間は修理する方に廻っていたが、我々よりは体力もあり働く動作も口数も勝っていた。しかし、作業内容はずっと楽であった筈である。私は重い足どりで喘ぎながら運んだ。そのとき私は何ともいえない割り切れない感じがした。

 それは我々囚人の自分達が閉じ込められている塀を、何故こんなにまで頑丈に修理しなければならないのか、との矛盾した思いであった。所長も監視兵も、それほど我々囚人の脱走を警戒するならば自分たちで思うように修理したらよいのではないか、と思った。これが籠の鳥であったなら、隙間を見つけて元気のいい奴は飛んで逃げてしまうであろうに。私は愚にもつかないことを考えながら、黙々と運び続けた。

 やがて昼食となった。待ちにまった道灌汁を吸いながら、こんなスープ一杯で逃げられるわけがないではないか、半ば捨て鉢的な気持ちになったとたん、身も心も崩れていくような気がした。

 その後間もなく、収容所での「シモーン」〈身体検査〉の結果、私は「オッペ」〈休養班〉行きとなったのである。

 

《出典》「凍原の思い出~私のシベリア体験記」 山本 剛
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