◆ハバロフスクへ向かう途中のこと◆

私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出~私のシベリヤ体験記』という一冊の本に仕上げました。当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るようにひたすら書き続けました。(挿絵も伯父が当時を偲んで描いたものです。)今は亡き伯父の思いを引き継ぎ、姪である私が顕して行きたいと思い公開しているものです。沢山の方々にこの体験記を読んで頂ければ幸いです。※今年は、以前この記事毎にコメントを下さった方とのやりとりを載せてみました。コメントを下さった「みーさん」は、ご家族と共に何年かロシアに滞在したご経験のある方です。私の伯父の日記の内容を膨らませ豊かにして下さり心から感謝して居ります。

◆第二章「ラーゲル生活あれこれ」
~ハバロフスクへ向かう途中のこと◆

 

 一九四七年二月、チョルマ列車に乗せられた我々は不安な気持ちで一杯だった。初めて眺める極寒の地シベリヤは、春先とはいえ日本の厳寒にも等しく、樺太を出たままの服装だったのでかなり身にこたえた。保たれている少々ばかりの体温も、時間が経つにつれ冷えきってしまった。口もだんだん重くなり、ひたすら、列車の驀進に身をまかせていた。

突然列車はなだらかな山の中腹で止まった。班長の言うには水の補給だとのことだった。その時一人の日本兵捕虜が列車に近づいて来た。兵隊は懐かしそうにして、“何処から来たのですか”と声をかけた。私たちは樺太から連れて来られたのだ、と班長が説明していた。捕虜兵は満州から送られて来たとか、彼の話によると“毎日のように二、三人づつ飢えと寒さのため、朝起床もできずそのまま固くなっているのですよ”と収容所の状態を語ってくれた。

彼は、あそこで仲間が電柱の穴掘り作業をしている、と指さした。その方向を見ると、山裾に点々と防寒帽のの外套姿が見えたのである。兵隊は煙草袋を班長に渡して立ち去った。

遠くにいた兵隊は、皆我々の列車を見送るかのように、ボーッと立って此方を見上げていたのである。その時もらった煙草は、皆で少しずつ回しながら吸った。

列車は二時間ほど走って、田舎の小さな駅に着いた。そこでは薪の積み込み作業を手伝うようにと監視兵の命令であった。その時初めて、私は汽車が薪をエネルギーとして走っていることを知ってびっくりした。そこで私は出合った兵隊から仲間が凍死する話を聞いたり、薪で走る汽車を見たりして、これから先、一抹の不安が凍てついたアムール河の流れに沿って一層つのったのである。

 

 

《出典》「凍原の思い出~私のシベリア体験記」 山本 剛
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