◆ドイツ兵との出会い◆

私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出~私のシベリヤ体験記』という一冊の本に仕上げました。当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るようにひたすら書き続けました。(挿絵も伯父が当時を偲んで描いたものです。)今は亡き伯父の思いを引き継ぎ、姪である私が顕して行きたいと思い公開しているものです。沢山の方々にこの体験記を読んで頂ければ幸いです。※今年は、以前この記事毎にコメントを下さった方とのやりとりを載せてみました。コメントを下さった「みーさん」は、ご家族と共に何年かロシアに滞在したご経験のある方です。私の伯父の日記の内容を膨らませ豊かにして下さり心から感謝して居ります。

◆第二章「ラーゲル生活あれこれ」~ドイツ兵との出会い◆

 

 一九四九年は私にとってラーゲルの終点であった。そのアシノでは、日本人は私とT氏の二人だけで、ドイツ捕虜兵の班に加えられたのである。

 翌日からさっそく仕事に出された。何か木材の工場の整理であったような気がする。仕事を終えてバラックに戻った時、T氏は何処へ移送されたものか姿がなかった。彼は樺太のどこかの町で理髪店をしていたらしかったが、足の不自由な人だったので仕事には出なかった。

 わたしはそこで一人きりになり、ドイツ兵達と五日ほど一緒に暮らしたが、間もなく彼らとも別れて木材を流送する班に入れられたのである。

 ここでの仕事はわりと楽なものだった。川の中に作業用の仮橋が四方に巡らせてあって、幅広い板が二列に敷かれてあった。そこを歩きながら、長い流送竿で丸太の流れがスムーズに行くように管理するのであった。

 そこには女性のアラボーチが数人いて、私と同じような仕事をしていた。五〇メートルほど離れていたので、ついに話しかけることもなかった。彼女たちも私と同じ身の上なのか、それとも一般地方人なのか分からずじまいである。

 私の刑も余すところ一年余りとなった。そこでは丸太に乗る仕事もなく、橋から転落もせず、私のラーゲル生活は一番遠い位置にあったここアシノの収容所で別れを告げることになる。そして南のトムスクへと移動したのであった。

 

《出典》「凍原の思い出~私のシベリア体験記」 山本 剛
 
 
みーさん
みーさん

最後に比較的軽い労働につけてよかったですね。よく働かれましたね・・・。

mimicoco
mimicoco

 みーさん♪この節を読んでいて なんだか私も少し安心したりして。。日本人たった一人で心細かったでしょうけど。。

タイトルとURLをコピーしました