◆トンネル工事と馬◆

私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出~私のシベリヤ体験記』という一冊の本に仕上げました。当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るようにひたすら書き続けました。(挿絵も伯父が当時を偲んで描いたものです。)今は亡き伯父の思いを引き継ぎ、姪である私が顕して行きたいと思い公開しているものです。沢山の方々にこの体験記を読んで頂ければ幸いです。※今年は、以前この記事毎にコメントを下さった方とのやりとりを載せてみました。コメントを下さった「みーさん」は、ご家族と共に何年かロシアに滞在したご経験のある方です。私の伯父の日記の内容を膨らませ豊かにして下さり心から感謝して居ります。

◆第二章「ラーゲル生活あれこれ」~トンネル工事と馬◆

 

 六〇一号収容所のトンネル工事は、六〇二号ラーゲルと両方からの掘削で進めていた。

そこは日本人・朝鮮人・中国人の三班に分かれて、昼夜三交代のフル操業であった。ソ連の鉄道は勿論、広軌道のためトンネルも相当高く上層、下層と二段堀りである。削岩機はロスケ達が担当し、班の主力は上段トンネルの天井に馬蹄型の木枠と羽目板の間へ、下層から運ばれてくるコンクリートを詰め込む仕事をしていた。その工事が何メートルできるかで、班のパーセントがきまり、総てそれによってパン及び副食物の配給量も違ってくるのであった。ここのラーゲルは、国営工事のラーゲルとして、給与は最高であるときいていた。

私達は四人で、ベトン造りの別棟の作業所で働いていた。この建物は三階建であった。一階にはトンネルにコンクリートを運搬する馬車のレールが奥へと通じていた。二階にはコンクリートを練る「ミシャイカ」〈ミキサー〉がぐるぐる回転していた。三階が我々の持ち場で、ここはV字型の鉄製運搬車に砕石とセメントを詰め込み、レールの上を二人で押して行き、二階のミキサーに入れるように、一メートルほどの木枠に車を倒して注ぐのであった。

この三階のレールの両側は、六畳間ほどにいくつにも仕切られていて、砕石と砂とを交互に入れてある部屋で、ここの床には蒸気パイプが通っている。そうして寒さから凍結をまもっているのである。

そのため我々には適当な休憩室であった。ここで休みながら、私はフト変な事を思っていた。それはここで運搬に使われている馬が、見る影もなく痩せ衰えていた事である。一日の仕事が終わって放されると、一目散に廐舎目がけて走って行く姿を見て、この馬も何の罪でこんな所で働かされているのか、と我が身につまされて哀れを感じたものだった。

 

《出典》「凍原の思い出~私のシベリア体験記」 山本 剛
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