◆第二章「ラーゲル生活あれこれ」~シベリヤ鉄道◆
一九四九年(昭和二十四年)ハバロフスク移送中継所には、各方面からいろいろな人種が集合していた。日本人はマガダン方面から帰った人たちが二〇〇名ほど先に入っていたが、私の知っている人は誰もいなかった。
そのうちに食料が配給された。駅に集合して囚人列車に乗ったが、何処まで行くのか全く分からなかったのである。
やがて列車がある駅に来た時、ロスケが「ゴーラド、チタ」〈チタ市〉と言っていた。チタ駅の構内には、満州国からの戦利品の自動車、トラック、電柱等いろいろな物が山積みされていた。
次に降ろされた所はイルクーツクであった。ここで二日ほど休養して、再び列車に乗せられた。車内は日本人を入れて二十名位であった。
私は車窓から見たバイカル湖のあまりの広大さに、何か故郷の海でも見ているような錯覚をおこしたのであった。
次に降りた所はカンスクという街で、ここのラーゲルは市の郊外にあった。背面は台地状の禿げ山で、前面は平坦な農場に見えた。
ここは今まで労働して来た収容所とは全く感じの違う、何となく長閑なラーゲルに見えた。後で分かったのだが、ここは刑の軽い囚人が収容されている所らしい。しばらくここに置いてくれたら多少は私の栄養失調も回復するであろうと思ったが、残念ながらここでの休養は一日だけで、明日はいよいよ目的地の「ユージノ、ウラル」〈南ウラル〉に入るのである。
列車は西に向かってどんどん進んだ。初めて見るシベリヤ鉄道は、私の眼に入る景色が総て物珍しく、何も彼も忘れて見入ったものであった。やがて私と日本人のT氏とを残して全員クラスナヤルスクで降ろされたのである。その時、車内に残された二人は急に心細くなって、クラスナヤルスクの駅をどのように通過したのか、全く記憶がないほどただ不安だけが先だったのである。
列車がこの駅を出発してから、一昼夜が過ぎた。移送の都度、複雑な思いにかられながらも、列車での移動は三年のラーゲル生活で多少馴れてきていた。
ノボシベリウスクの中継所に着いたのは二日めの午後であった。ここの駅は市街の高台にあって、麓の方には大きな建物が無数に広がり、私がこれまで見てきたうちで一番の大都市であった。

私たち家族は、小さい子ども連れのロシア赴任故、シベリア鉄道には乗れませんでした。観光でなく、こうして厳しい労働のために移動させられた方々、車窓からの景色を複雑なお気持ちでご覧になったことでしょう。

車窓の風景は日本のそれとは違ったスケールの大きさがあったでしょうね。伯父は、色々な想いが交錯したことだと思います。