◆シベリヤまで Ⅳ◆

私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出~私のシベリヤ体験記』という一冊の本に仕上げました。当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るようにひたすら書き続けました。(挿絵も伯父が当時を偲んで描いたものです。)今は亡き伯父の思いを引き継ぎ、姪である私が顕して行きたいと思い公開しているものです。沢山の方々にこの体験記を読んで頂ければ幸いです。※今年は、以前この記事毎にコメントを下さった方とのやりとりを載せてみました。コメントを下さった「みーさん」は、ご家族と共に何年かロシアに滞在したご経験のある方です。私の伯父の日記の内容を膨らませ豊かにして下さり心から感謝して居ります。

◆第一章「シベリヤまで」~シベリヤまで Ⅳ◆

 二日めの朝がきた。船内の真っ暗なことは夜昼の関係なく続いていた。

   船艙に設けられてある簡易トイレといっても、囚人輸送のためにビール樽を立てて石炭の中に三〇センチほどの深さに据えたものであった。朝方、皆同じ頃に目が覚めた。一斉に生理現象をもよおしてきた。昨日人一倍水を飲んだ奴等ほど、時間が長かった。我々の肩を片手でワシづかみにして、一方の手でズボンを押さえながら樽の縁に両足を掛けてシャガミ込み、まるで猿の「チン芸」であった。もの凄い音を立てての放水「ジョー、ポチャン」とさながら二重奏である。始めのうちはコッケイだったが、樽の容積もだんだん小さくなるにつれ、船の揺れに合わせてジャージャーと溢れ出してきた。私はこの先どうなるのかと、つまらぬ事が気になったのである。

 突然、ハッチの蓋が開いてニュッと監視兵の顔が見えた。「ドブロ、ウートロ」〈おはよう〉と言った。奴等は、なぜハッチが開いたのか大体わかったらしく、わりと愛想よく「ドブロ、ウートロ」と声を返した。監視兵は班長を呼んで、朝のパンを下ろし始めた。パンの配給であった。我々にも四キログラムの黒パン一本が当った。六人一組となって石炭の上に風呂敷を広げ、顔も洗わぬうす汚れた手で分け始めた。その時はおそらく誰もが、厚い皮付きのところが欲しくて注目していたに違いない。しかし、そこはお互い日本人同士、マアマアと揉めることもなく仲良く分け合った。ロスケの奴等は我々の倍以上も食ったことだろう、と腹立たしく思いながらジッと我慢しなければならなかった。

我々を乗せた船は四日めに、いよいよ赤の国のウラジオストックへ昼頃に着くらしく急に騒々しくなってきた。私は不安と、物珍しさもあって、なんとなく複雑な焦燥を感じた。間もなく目的地に着いたのか、低くて長い汽笛の音が聞こえたのである。

一瞬ざわめきの中で上陸が開始された。ドンドンと、ロスケ達は本国の土を踏めるのが嬉しくてか、足音も軽々と甲板目指して歩き出した。間もなく全員上陸完了。

初めて見る私の眼には、波止場一杯に林立する艦船のマスト、そして坂の街に広がる白壁の建物、点在する家屋など、ここが世にいうウラジオストックか、と呟いた。それは私の眼に映った初めての外国であった。

首を左右に回したものの、将校や監視兵たちに取り囲まれているので、キョロキョロする事はできなかった。それは敗戦国民の囚人として、せめてもの遠慮からであったのかも知れない。

五列縦隊の先頭は五人のロスケ、それぞれ手錠を懸けられた。後列には荷物を背負った我々の組が続いた。輸送の将校も監視兵達も本国に着いたとたん、皆一斉に緊張している様子がよくわかった。迎えの犬までが忠節ぶりを発揮してか?やたらと動き廻っていた。

ウラジオは一見して小樽によく似た感じの街であった。波止場を出発した隊列は足早に前進した。繁華街を行くロシア人の監視もいろいろで、物珍しそうに立ち止まって見ている者、見ぬ振りで通り過ぎる者、私はいささか羞恥を腹立たしさを感じた。やがて電車路線を横切って坂道を三分の一ほど登った左手に、白い建物が見えた。日本の領事館らしかった。菊の御紋章を外した跡が生々しく見えた。これにもまた胸が痛み、敗戦国民の悲哀をつくづく感じたものであった。

~ to be continued

 

《出典》 「凍原の思い出~私のシベリア体験記」 山本 剛
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