◆シベリヤまで Ⅲ◆

私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出~私のシベリヤ体験記』という一冊の本に仕上げました。当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るようにひたすら書き続けました。(挿絵も伯父が当時を偲んで描いたものです。)今は亡き伯父の思いを引き継ぎ、姪である私が顕して行きたいと思い公開しているものです。沢山の方々にこの体験記を読んで頂ければ幸いです。※今年は、以前この記事毎にコメントを下さった方とのやりとりを載せてみました。コメントを下さった「みーさん」は、ご家族と共に何年かロシアに滞在したご経験のある方です。私の伯父の日記の内容を膨らませ豊かにして下さり心から感謝して居ります。

◆第一章「シベリヤまで」~シベリヤまで Ⅲ◆

 そのうち次第に眼も馴れてきたのか、高さ四メートルほどの天井から、蛍の尻ほどの薄灯りが見えてきた。私は小高い石炭の上に腰を下ろした。奪われた二個の荷物の中には、家族から差し入れられた細長い敷布団、冬服上下、バスタオル、下着などが入っていた。これらのものが、今まで後生大事に持ち歩いていた私の全財産であった。しかし、それらのものは再び自分の手に戻らないものと、半ばあきらめていた。

一時間ほどたった頃、天井のハッチが突然開いて、そこからいかめしい軍帽の「カピタン」〈大尉〉が、両手を広げた恰好で中をのぞき込み、ロスケの「ブルガジル」〈班長〉らしい大男に声をかけて、点呼をとるように指示をした。やがて点呼が終わると、ブルガジルは「ワダー」〈水〉をくれと要求した。そのとき日本人の一人が、すかさず我々の品物が総て掠奪されたことを訴えた。カピタンは大声を上げ、真っ赤な顔でブルガジルを怒鳴りつけた。一瞬シーンと静まり返ったが、エンジンの音は休みなく響いていた。

間もなく、荷物は一応みなの手元に戻ってはきたが、それらの物はいづれにせよシベリヤに渡れば総て失われるとも知らず・・・・、ひと時ホッとした。

一月も半ばを過ぎた午後六時頃。輸送船ならぬ囚人船はボーボーと太く重く、出航を知らせる汽笛の鈍い音がゴトン、ゴトンとエンジンの音に混じってかすかに聞こえてきた。船体は、一、二回大きく揺れる。いよいよ岸を離れるのかと思ってとき、急に全身が震えるのを覚えた。

時間がたつにつれて、船艙のざわめきも次第に落ち着きを取り戻してきた。私はしばらくして向かい側にいる奴等の服装に、フトもの足りなさを感じた。いくら寒さに強い人種とはいえ、大半の者が外套、またはオーバーを着ていないのに驚いた。いくらなんでも寒中ではないか、と思った。

そんなこともあってか、奴等は我々日本人の持っている衣類、着ているセーターなどをやたらと欲しがった。そして気の弱そうな日本人を見ると徐々に寄って来て、何やら分からぬロシア語で話しかけて来たものだった。我々にすればこれから先のことが皆目わからないので、少しでも情報が知りたかった。これからどこへ連れて行かれるのか?またいつ頃帰れるのか?、などと聞きたい事は山ほどあった。奴等が一様に言った事は、日本人は二年で帰れるとか、他の奴は三年とか、少しでも我々が喜ぶような安心するようなことを、いいかげんに言ったものだった。ただその時全く解らなかったのは、ロスケ共が口々に言う「ラーゲル」〈強制労働収容所〉という単語の意味であった。

大泊港を出航し二時間ほどもたった頃、突然ハッチが開いて監視兵が水の入ったバケツを下げてよこした。奴等は強そうな者から順にバケツの中に顔を突っ込んで「ガブガブ」と喉を鳴らして飲みだしたのである。我々はそばで「ゴクンゴクン」と生つばを呑みながら、奴等の飲み終わるのを待っていた。そのうちバケツのおかわりも四、五杯めになると、上にいるロスケが怒りだした。「カンチャイ」〈終わり〉と言ってバケツを引き上げてしまった。ハッチはガチャンと閉まった。未だ誰も飲んでいない大勢の我々を残したまま、監視兵の顔は消えてしまった。その時はつくづく悲哀を感じた。敗戦国民であるせいか、諦めもまた早かったのである。

~to be continued~

 

《出典》 「凍原の思い出~私のシベリア体験記」 山本 剛
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