◆シベリヤまで Ⅵ◆

私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出~私のシベリヤ体験記』という一冊の本に仕上げました。当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るようにひたすら書き続けました。(挿絵も伯父が当時を偲んで描いたものです。)今は亡き伯父の思いを引き継ぎ、姪である私が顕して行きたいと思い公開しているものです。沢山の方々にこの体験記を読んで頂ければ幸いです。※今年は、以前この記事毎にコメントを下さった方とのやりとりを載せてみました。コメントを下さった「みーさん」は、ご家族と共に何年かロシアに滞在したご経験のある方です。私の伯父の日記の内容を膨らませ豊かにして下さり心から感謝して居ります。

◆第一章「シベリヤまで」~シベリヤまで Ⅵ◆

 その日の夕方、突然ドアの錠を外して一人の監視長が顔を出した。「イタップ」〈移動〉のため食料を配給するから、一人づつ来るようにと入口で手まねで指示をした。廊下には二人の監視兵がいて、一坪ほどのテントを拡げてたくさんの黒パンと、そばに塩蔵ニシンを入れた木箱が置いてあった。黒パン二日分として1.5キロと鰊は二本であった。

 監房は日本人だけだったので、明日の行動も時刻も、皆目不詳であった。誰いうとなく、これからはきっとハバロフスク送りだろうと言い出した。その時は自分もそう思った。

日がたつにつれ、皆の顔色が青ざめてきた。時間もわからぬまま、フト獄窓を見上げると、鉄格子が鈍く光って見えた。やがて私は不安のうちに眠りについた。ウトウトした頃、誰かが“煙草でものみたいネ”とポツリと言った。私はその時、皆同じ気持なんだなぁと思った。

夜明け前から廊下が急に慌しくなってきた。いよいよ移動開始らしい。身支度を整えるといっても着たままのこと、身の回りの荷物を手早くまとめた。そのうちに奴等の得意な言葉「ベストル、ベストル」〈急げ急げ〉とうるさく促されて、出口の方へと誘導された。外気に当るのは久し振りだったので、痛いほどつめたく感じた。思わず帽子の耳被いを深くおろしてオーバーの衿を立てた。チョルマの広場は、囚人の吐く息でもうもうとしていた。我々を護送するためか、数匹の犬が待っていた。点呼が始まる頃には次第に夜も明けてきて、チョルマの建物がうっすら見えてきたのである。

やがて先頭が歩き出した。よく見ると我々の他に中国人、朝鮮人、ロスケと大分人数が増えていた。歩いているうちにすっかり夜が明けて、青空がのぞいてきた。着いた所は無論ウラジオストックの駅であった。

駅は大きな建物で、さすが日本海に面した極東の玄関だけあり、威風堂々としていた。大きな屋根には、ロシア文字で『ウラジオストック』と看板が掲げてあったのである。

行列は市民の眼をさけるような誘導で、我々のいう「ストルイピン」〈囚人列車〉に分散して乗せられた。ソ連の汽車は広軌道のため、かなり大きく見えた。

一輛のしゃないを六つか七つに金網で仕切り、鶏舎そのものであった。入口が個々についていて、その中は三階になっていた。窓は右側にだけあって、幅六〇センチほどの通路になっている。

一緒に入れられた仲間は日本人四名、ロシア人二名、中国人二名の計八名であった。私は最上段に日本人二名と、ロシア人(聾唖者)の三人で席をとった。しかし、このロスケの若者がクセ者で、我々二人の大切な食料を、夜中に皆が寝ているうちに全部盗んでしまったのである。朝になって気がついた時は、すべて後の祭り、その時の口惜しさといったら・・・・。正に食い物の恨みを痛感しながら、我慢せざるを得なかったのである。

ウラジオとハバロフスク間は二昼夜かかると聞いていた。食料も盗まれ、ひもじい思いをしてハバロフスクに着いたのは、三日めの昼頃のような気がした。

~ to be continued ~

 

《出典》「凍原の思い出~私のシベリア体験記」 山本 剛

 

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