◆第一章「シベリヤまで」~シベリヤまで Ⅵ◆
その日の夕方、突然ドアの錠を外して一人の監視長が顔を出した。「イタップ」〈移動〉のため食料を配給するから、一人づつ来るようにと入口で手まねで指示をした。廊下には二人の監視兵がいて、一坪ほどのテントを拡げてたくさんの黒パンと、そばに塩蔵ニシンを入れた木箱が置いてあった。黒パン二日分として1.5キロと鰊は二本であった。
監房は日本人だけだったので、明日の行動も時刻も、皆目不詳であった。誰いうとなく、これからはきっとハバロフスク送りだろうと言い出した。その時は自分もそう思った。
日がたつにつれ、皆の顔色が青ざめてきた。時間もわからぬまま、フト獄窓を見上げると、鉄格子が鈍く光って見えた。やがて私は不安のうちに眠りについた。ウトウトした頃、誰かが“煙草でものみたいネ”とポツリと言った。私はその時、皆同じ気持なんだなぁと思った。
夜明け前から廊下が急に慌しくなってきた。いよいよ移動開始らしい。身支度を整えるといっても着たままのこと、身の回りの荷物を手早くまとめた。そのうちに奴等の得意な言葉「ベストル、ベストル」〈急げ急げ〉とうるさく促されて、出口の方へと誘導された。外気に当るのは久し振りだったので、痛いほどつめたく感じた。思わず帽子の耳被いを深くおろしてオーバーの衿を立てた。チョルマの広場は、囚人の吐く息でもうもうとしていた。我々を護送するためか、数匹の犬が待っていた。点呼が始まる頃には次第に夜も明けてきて、チョルマの建物がうっすら見えてきたのである。
やがて先頭が歩き出した。よく見ると我々の他に中国人、朝鮮人、ロスケと大分人数が増えていた。歩いているうちにすっかり夜が明けて、青空がのぞいてきた。着いた所は無論ウラジオストックの駅であった。
駅は大きな建物で、さすが日本海に面した極東の玄関だけあり、威風堂々としていた。大きな屋根には、ロシア文字で『ウラジオストック』と看板が掲げてあったのである。
行列は市民の眼をさけるような誘導で、我々のいう「ストルイピン」〈囚人列車〉に分散して乗せられた。ソ連の汽車は広軌道のため、かなり大きく見えた。
一輛のしゃないを六つか七つに金網で仕切り、鶏舎そのものであった。入口が個々についていて、その中は三階になっていた。窓は右側にだけあって、幅六〇センチほどの通路になっている。
一緒に入れられた仲間は日本人四名、ロシア人二名、中国人二名の計八名であった。私は最上段に日本人二名と、ロシア人(聾唖者)の三人で席をとった。しかし、このロスケの若者がクセ者で、我々二人の大切な食料を、夜中に皆が寝ているうちに全部盗んでしまったのである。朝になって気がついた時は、すべて後の祭り、その時の口惜しさといったら・・・・。正に食い物の恨みを痛感しながら、我慢せざるを得なかったのである。
ウラジオとハバロフスク間は二昼夜かかると聞いていた。食料も盗まれ、ひもじい思いをしてハバロフスクに着いたのは、三日めの昼頃のような気がした。
~ to be continued ~