◆シベリヤまでⅠ◆

私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出~私のシベリヤ体験記』という一冊の本に仕上げました。当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るようにひたすら書き続けました。(挿絵も伯父が当時を偲んで描いたものです。)今は亡き伯父の思いを引き継ぎ、姪である私が顕して行きたいと思い公開しているものです。沢山の方々にこの体験記を読んで頂ければ幸いです。※今年は、以前この記事毎にコメントを下さった方とのやりとりを載せてみました。コメントを下さった「みーさん」は、ご家族と共に何年かロシアに滞在したご経験のある方です。私の伯父の日記の内容を膨らませ豊かにして下さり心から感謝して居ります。

◆第一章「シベリヤまで」~シベリヤまで Ⅰ◆

 1947年一月、私は裁判を終えて既決囚の大部屋に入れられていた。夜中に突然、荒々しい靴音に混じり、何かを喋りながらこちらに近づく監視兵達の気配で目が覚めた。

やがて扉が開き、薄暗い大部屋に五、六名の兵隊が、大声でわめきながら入ってきた。突然布団をまくり上げて、手当たり次第に投げ出したのである。私はとっさに捜見かと思った。私物を手早くまとめて、風呂敷包み二個をガッシリ握りしめていた。部屋の中は、まるで蜂の巣をつついたような騒ぎであった。

“全員、屋外に整列せよ”との号令がかかって、シベリヤ移送のための起床であった。

屋外の寒気が寝ぼけた面に痛いほど浸み込んだ。いよいよこれから馴れないロシア語の号令を聞きわけながら、囚人として皆と共に生きて行くことを、心にしかと決めたのであった。

輸送される囚人は日本人、朝鮮人計六〇名、ロシア人六〇名で合計百二〇名との噂である。

やがて隊列を組まされ、前後に十名ほどの監視兵と犬を連れた兵隊が三名ついた。間もなく出発の合図があって、豊原「チョルマ」〈刑務所〉の正門の重い扉が鈍い音を出して左右に開いた。門を出たとたん、街の灯りが我々の吐く息の中にボーッとかすんで見えた。

寝静まった豊原の街並みは、さすが終戦後の不安な毎日を過ごしていたせいか、犬コロ一匹の影すら見えない。静かで不気味な夜であった。やがて豊原駅に着く。時計の針は午前二時を指している。

薄暗い駅の構内には、入り口を開けた貨車が長く連結されて停車していた。間もなくロシア兵が来て私たちを二〇名位ずつに分け、「ベストリー、ベストリー」〈早く早く〉と尻を押して乗り込ませたのである。あとは扉をドスンと響かせ、ガシャンと音を立てながら錠を下ろして靴音は消えて行った。

 ~to be continued~

 

《出典》 「凍原の思い出~私のシベリア体験記」 山本 剛
タイトルとURLをコピーしました