◆ゴロビッチャ〈フレップ〉狩り◆

私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出~私のシベリヤ体験記』という一冊の本に仕上げました。当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るようにひたすら書き続けました。(挿絵も伯父が当時を偲んで描いたものです。)今は亡き伯父の思いを引き継ぎ、姪である私が顕して行きたいと思い公開しているものです。沢山の方々にこの体験記を読んで頂ければ幸いです。※今年は、以前この記事毎にコメントを下さった方とのやりとりを載せてみました。コメントを下さった「みーさん」は、ご家族と共に何年かロシアに滞在したご経験のある方です。私の伯父の日記の内容を膨らませ豊かにして下さり心から感謝して居ります。

◆第二章「ラーゲル生活あれこれ」
~ゴロビッチャ〈フレップ〉狩り◆

 一九四七年、ウルガルでの最初の秋だったと思う。あれから四十年以上もたった今でも、楽しかった思い出のひとコマとして残っていることがある。
ある日曜日の午後の事、監視の兵隊が来てこれからお前達を、「ゴロビッチャ」〈フレップ〉狩りに連れて行くから、全員門前に集合せよとの命令だった。私はその時“ヨシ腹一杯食べるぞ”とばかりに喜んだ。
場所は門を出て二キロくらい行った所の草原だった。私は樺太の大泊で中学校時代に、弟達を連れてフレップ狩りに行ったことがあったので、それだとばかり思い込んで足元の草原ばかり探した。しかし、あのフレップの十センチほどの小さな木は見つからない。フト彼等の方を見ると、「ピオッカ」〈夏帽子〉を片手に、せっせと口に入れているのを見た。その時、彼等が採っているのは樺太で我々がいっていた灌木に実るマスフレップであった。私は少年の頃のコケモモを想像していたので、すっかり採り遅れてしまった。それから懸命に採って食べた。その時の甘酸っぱい味は今でも忘れられない。二時間ほどして監視兵は大声で「ヤポンスキー」〈日本人〉、たくさん採ったかと言っているようであった。ロスケ語も分からぬまま、「ダー」〈はい〉と誰かが返事をした。
帰る頃には、私も帽子に四分の一も採ったろうか。皆で採ったのを集めて、監視兵の持ってきたメリケン袋に入れると、だいたい三分の一位の収穫であった。監視兵は満足そうな顔をしていた。
これはいったい誰が食べるのだろうか、所長や監視兵達で分けるのだろうか。そんなことはどうであれ、秋晴れのひとときを皆で口を真っ赤に染めて、夕陽の映える山路を下りてきたのである。こんな楽しい解放感を味わったことは二度となかった。

 

《出典》「凍原の思い出~私のシベリア体験記」 山本 剛
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