◆第三章「地方人としての暮らし」
~カンスク市への集団移動◆
老人組みが中風のN氏を連れてカンスク市に転出したのは、一九五二年一月の頃と記憶している。カンスク市には大きな病院があり、入院する事も可能であった。その上、新しい情報も早く聞く事が出来た。十一名ほどもいたバラックにはロスケの若者もいたが、彼も日本人の中に一人では寂しかったのか、また彼女でも見つけたのか?いつの間にかいなくなった。老人組も講談師のF氏など三名が減り、残ったのは我々五名となった。それからは楽しみだった講談を聞く事も出来なくなったのである。
その頃、我々の中では時々思い出しように「ダモイ」<帰国>の事が話題になった。日本の捕虜兵達は、一九四九年には祖国日本へ帰っているのである。けれども我々囚人組には、一向に帰国話は何も無かった。我々もこんな田舎や山の中にいては、いざ帰国の時に取り残されてしまうのではないか、その事をいつも皆で心配していたのである。
やがて九月に入り、班長のM氏から“我々もカンスク市に集団移動をしよう”との話しが出た。それを聞き我々はこおどりして喜んだものだった。それからは我々の賃金の交渉と、班長は監督や本部の会計との折衝に回るやら、いろいろと奔走したのである。また班長は監督に袖の下を使い皆のノルマのパーセントを水増しさせた事も我々に知らせるなど・・・、彼は中々の遣り手であった。
それから数日後、我々は午後のトラックに乗って部落の景色に最後の別れを告げ、ドンドンと西方のカンスクに向かって走った。
三時間位も走ったろうか、カンスクの街は思ったより大きく、人口は五万人以上はあったらしい。ここはかって私が「ユージノウラル」<南ウラル>へ送られた時に中継所として立ち寄った所でもある。この街で私はいつ帰国出来るかも知らずに働いた。シベリヤ生活最後の街となったのである。

ロシア人と交渉にあたった方はさぞかし大変だったでしょう。日本人学校もロシアとの交渉では苦労していました。帰国が近いようでホッとしています。

みーさん♪ ここまでくるとロシア語もちょっとした会話には不自由しなかったでしょうね。ダモイが近づいた感じがしますよね?私も少しホッとしています◎