◆第二章「ラーゲル生活あれこれ」~エタップ〈移動〉◆
一九四九年(昭和二十四年)九月の中頃、私はロスケの班長に呼ばれた。ミシヤ、今夜お前の仲間のヤポンスキーがいるハバロフスクへ帰れると言うのであった。私にすればここのロスケ達が親切にしてくれたので、なんとなく名残惜しかった。命令なので「ダー」〈はい〉と言ったきり何も言えなかった。そばから「ポモシニック」〈助手〉が「ミシヤ、ハラショー」〈山本、よかったな〉と言って私の顔を覗き込んだ。やがて皆と別れ、監視兵に伴われて正門に来た時、後から班長が小走りに駆けて来た。彼は五〇〇グラムのパンと少量のマホルカを持って来て、見送ってくれたのである。私は班長の厚意に感謝しながら、トラックに乗った。月夜ではあったが、肌寒い夜であった。車には銃を持った監視兵と私の二人だけだった。
車は二時間ほど走って、ラーゲルの門の前で止まった。そのまま二十分くらい待ってると、女性監視兵に連れられた女囚一人乗って来た。私は「エタップ」〈移動〉とすぐ分かった。彼女と私は車の側面に向かい合って座った。彼女はそのとき「ブシラータ」〈綿入れ上衣〉に顔をうずめるようにしていたが年齢は私くらいかと思う。
しばらくして顔を上げた時、彼女の顔は月明かりで真白に見えた。私は「ヴイ、カコイ、ナッイ」〈貴女は何人種ですか〉と聞いた。すると彼女は「ヤ、フランツイヤ」〈私はフランス人です〉と答えた。私は「ヤー、ヤポンスキー」〈私は日本人です〉と言った。つづけて、煙草を吸いますかと聞くと「スパシーボ、ヤニェハチュウ」〈ありがとう、私はほしくないです〉と言った。さすがそれ以上、どうしてシベリヤに・・・などとは聞く事ができなかった。
車はコムソモリスクでのいろいろな思い出を乗せて、ハバロフスクへ向って南下したのであった。

そのまま、日本にダモイできるかと思いきや・・・。個人としてのロシア人は優しくともソ連は過酷な事を強いる国でしたね。

本当に。。伯父は複雑な心境だったと思います。