◆イモの皮むきアルバイト◆

私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出~私のシベリヤ体験記』という一冊の本に仕上げました。当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るようにひたすら書き続けました。(挿絵も伯父が当時を偲んで描いたものです。)今は亡き伯父の思いを引き継ぎ、姪である私が顕して行きたいと思い公開しているものです。沢山の方々にこの体験記を読んで頂ければ幸いです。※今年は、以前この記事毎にコメントを下さった方とのやりとりを載せてみました。コメントを下さった「みーさん」は、ご家族と共に何年かロシアに滞在したご経験のある方です。私の伯父の日記の内容を膨らませ豊かにして下さり心から感謝して居ります。

◆第二章「ラーゲル生活あれこれ」
~イモの皮むきアルバイト◆

 

 一九四七年十一月、この頃になると私だけでなく大勢の仲間達もかなり栄養失調が進んで、肋骨もはっきりと見えてきた。歩行も頗る困難になってきた。

私は最小のパンと実のないスープを貰って食べ終えると、騒々しい食堂を出て炊事場の方へ行ってみた。

その頃は毎晩、イモの皮むきに七名ほどのアルバイトが採用されていた。私も是非今晩の採用に指名されたいと思って、皆と一緒に裏口に立って待っていた。食堂で一番若手のロスケのコックが得意気な顔をして一同を見回している。

コックは私の「オチキ」〈眼鏡〉が気に入ったのか、「ヤポンスキー、オチカ」〈日本人、眼鏡をかけた者〉と幸いにも私を一番先に指名してくれた。その時の組は中国人一名とあとはロスケであった。

炊事場へ入ると皆一様にナイフを渡された。そこにはビール樽が三本あって、その中には七分目ほどのイモが入っていた。これを皆が起床するまでにむき終えるように、と言われた。

皆は孤の此所の給食をよく知っているので、一斉にむき始めた、釜のそばにいたロスケの一人が、コックの眼を盗んで一メートルほどの長さの針金にイモを通し、それを輪にして釜の中に入れた。針金の端を釜の縁にかけて蓋をした。

間もなく見つからないように取り出して皆に分配してくれた。急いで食べたがイモは生煮えであった。樽の中のイモはむいても、むいても減らないような気がした。

やがて食堂からの騒々しさもおさまり、パックを洗う音が激しくなってきたころ、若いコックは皆に釜の底の濃いスープを食器に一杯ずつ配給してくれた。それはイモだけのスープであったが、その中身たるや、毎日あたるスープの量の一年分もあって、充実感と満腹感を一気に味わった。

ナイフは再び一斉に動き始めた。指先は次第に疲れてきた。

食堂のコックは殆どが姿を消した。当番のコック一人が大きな釜の蓋を開けて見廻っていた。やがてカマドの上から食缶を下ろして、すりこぎ棒で中味のイモをつぶしだした。それはロスケが簡単によくすることで、イモをつぶしてそれに油を入れて食べるのであった。これを食器一杯に盛って皆に配ってくれた。私は腹の張るのもかまわずこの時とばかりに食い溜めをした。時計の針は夜中の一時を指していた。

かなり腹もきつくなってきたし、ロスケもそろそろあきてきたのか、かわるがわる「パッサージ」〈小便〉に立つのであった。私もだんだん眠くなってきたが、何とか朝まで頑張った。

起床までにはまだ一時間はある。私は多少気がとがめたが、先輩にいわれたとおり“予定の行動をとらせていただきます”とは言わなかったが、皮をむいたイモを手早くスライスして「カートンキ」〈防寒靴〉の中に詰めたのであった。どうやら両靴が一杯になったので次は帽子を脱ぎ、その中にせっせとスライスしたイモを入れた。瞬く間いっぱいになった。私が「ハラショー」〈よし〉と言って、その帽子を被って得意気になったのは言うまでもない。見ていた中国人も私の真似をして、せっせと「カートンキ」に詰めた。その時ロスケ達は何も言わずに、ニヤニヤして何かこそこそ言っていた。

やがて起床も近づいてきたらしかった。今度はまた、コックが朝の一番スープの最高品を皆に配給してくれたのである。

私はその朝、満腹感に浸りながら腹をかかえてバラックに戻った。さすがその朝のスープは仲間に与えたのであった。
とにかく、このアルバイトは寝ずの仕事なので連日は出来ないと思った。

帽子や靴の中に入れて持ってきたイモは、雪を溶かした水で蒸したようなものにして、皆で分けて食べたのであった。

 

《出典》「凍原の思い出~私のシベリア体験記」 山本 剛
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