◆もう囚人ではない◆

私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出~私のシベリヤ体験記』という一冊の本に仕上げました。当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るようにひたすら書き続けました。(挿絵も伯父が当時を偲んで描いたものです。)今は亡き伯父の思いを引き継ぎ、姪である私が顕して行きたいと思い公開しているものです。沢山の方々にこの体験記を読んで頂ければ幸いです。※今年は、以前この記事毎にコメントを下さった方とのやりとりを載せてみました。コメントを下さった「みーさん」は、ご家族と共に何年かロシアに滞在したご経験のある方です。私の伯父の日記の内容を膨らませ豊かにして下さり心から感謝して居ります。

◆第二章「ラーゲル生活あれこれ」~もう囚人ではない◆

    早いものでトムスクに来て四ヵ月が経った。私は受刑最後の初冬を迎えたのである。来月はいよいよ満期釈放となるのであった。

ふとその時、十四年前に旭川の軍隊で召集解除になった時の事が、さあっと頭の中をよぎった。あの時のような嬉しさは湧かない。ただただ不安な毎日を何事にも耐えて今日まで過ごして来た事が、我ながら不思議に感じられた。これも健康なればこそと、心から親に感謝する。

私が釈放になる日は十一月上旬の予定であった。いよいよ釈放の一週間ほど前になったある日、監理局職員が収容所にやって来た。私のパスポートを作成するために、写真と指紋をとって行った。

「ミシヤ、ハラショー」〈山本、よかったなぁー〉と班の中で一番の「スタレーカ」〈老人〉が、私の顔を見ながら言った。私は「ダー」〈はい〉と何故か重い口調で返事をした。老人はしばらくしてから「ミシヤ、お前わしの婆さんの所へ尋ねて行け」と真面目な顔つきで言ってくれた。私は嬉しい事を言ってくれるものだと思って、心から「スパシーボ」〈ありがとう〉と言った。

ここトムスクでの仕事は、毎日台車の丸太積みであった。今までの鉄道工事から見ると、ずっと身体は楽であった。それに気候も多少暖かく感じた。しかし、痩せた体と皮膚の鮫肌は、なかなか元通りに回復しなかった。

やがて待ちに待った釈放の日が来た。おかしなもので私はロスケ達と別れるのが、なんとなく名残惜しくなってきていた。例のスタレーカが「ミシヤ、汽車の中では絶対寝るなヨ。靴まで持って行かれるぞ。証明書は肌にしっかりつけて置け。盗まれたらお前はまたチョルマ〈刑務所〉だぞ。」などと、こまごまと注意をしてくれた。その事が私には嬉しくて、涙が込みあげてきた。

私は興奮しながら、最後に班の皆に「ダスビダーニ、ダスビダーニ」〈さようなら、さようなら〉と心から深々と挨拶をした。貴重なパンを売ってやっと手に入れた、ロスケが持ち歩くベニヤ板のチマダン〈トランク〉をさげて、監理局の職員の後について衛門に向った。衛門には監視兵が三人ほどいて皆ニコニコしながら、一様に口を揃えて「ミシヤ、ハラショー」〈山本、良かったな〉と言いながら、「ここの門を出たならもう入れないのだから、またここに来ては駄目だ」と言うのであった。

私はその時、なんとも言いようのない複雑な感情を押える事ができなかった。夢中で衛門を出た時、初冬の太陽が大分沈み辺りは薄暮であった。

「さあ、私は今から自由の身なのだ!『ザクリチョンネ』〈囚人〉ではないのだ!」と自分に何度も繰り返しながら言い聞かせたのである。

 

《出典》「凍原の思い出~私のシベリア体験記」 山本 剛

 

みーさん
みーさん

この日を健康に迎えられてダモイ(帰国)がかなって本当に良かったですね。優しいロシア人に出会えますように、と願いつつ読ませていただきました。おじさまのお人柄ゆえ多くの良い出会いもあったようで安心いたしました。

mimicoco
mimicoco

みーさん♪ ありがとうございます。きっと心細さもてつだって、収容所を離れ難かったと思います。辛い状況にあって、人の情けにふれるのは。。本当にありがたいことだったと思います。

 

 
 
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