“おじいちゃんは、なぜラーゲルへ連れて行かれたの?”と、孫たちに尋ねられそうな気がする。
私は昭和十四年五月一日、臨時召集を受けて大泊郵便局から旭川歩兵第二十八連隊に応召した。そして翌年五月三十一日付を以って召集解除となり、同郵便局に復帰したのである。これが私の短い軍歴であった。
たまたま父が昭和十六年六月に特定郵便局長として、白浦〈ウズモーリエ〉に赴任したのである。当時私は独身であったが、長男に生まれたため世襲制の関係もあって、家族と共にこの地に移り住むようになった。
転居して間もなく、私は局務の傍ら在郷軍人として白縫村白浦分会に席を置き、会計参事を務めることになった。その時、役場から地元青年学校の指導員の委嘱を受けた。つまり、炭鉱で働く青年達の訓練を仰せつかり、銃後の守りを担うことになったのである。
その頃分会には五丁の歩兵三八銃が配備されており、炭鉱の労務主任で分会の事務参事であった局舎の宿直室の押し入れの中へ保管することになった。
終戦も近くなった昭和二十年七月十七日、我々在郷軍人が白浦国民学校に於いて、合宿訓練中のことである。たしか朝五時頃だったと思うが、敵国の謀略行為と思われる事件が起こった。それは沿線に人家のない砂浜海岸で、上りの夜行列車を狙って鉄道爆破事件が発生したのである。村長、警察は早急に警防団を召集して夜間に警戒体制を固めた。その時、白浦と保呂の両地区から各二名ずつ派遣して巡察を続けた際、使用したのが奇しくもこの銃のうちの二丁であった。
さて、私が八月十五日の終戦を迎えたのは、真縫の防衛隊特設警備第三0一中隊に応召中のことである。
しかし、ソ連軍の参戦は八月九日であった。その頃すでにソ連軍は、樺太の北緯五〇度線の国境を越えて、日本領土を南下して来ていた。
父は私が保管していた銃による危険を感じたらしいが、私が応召中で不在のため相談することもできず、密かに筵に包んで残る三丁の銃と銃剣を我が家の敷地内にある母屋から六〇メートルほど離れた馬鈴薯畑の一隅に埋めたのである。戦争は終わったが、たまたま市外地区である保呂班へ巡察のために貸与していた二丁の銃から足が付き、それが引き金となり、私はソ連刑法の武器隠匿罪、即ち第五十八条、第十四項のサボタージに該当したのであった。保呂班のN氏と私は裁判の日こそ異なったが、それぞれ五年の判決を受けて囚人〈ザクルチョンネ)となり、シベリヤ送りの破目となったわけである。
この囚われの経緯を、私は孫達に、はっきり理解させておこうと思った。「おじいちゃんはネ、決して悪いことをして、シベリヤにつれて行かれたのではないんだよ。」ということ。また、それと同時に戦争の恐ろしさをよく知って欲しかったためである。
ありがたいことに私たちは、平和な暮らしの中にいる。再び、世界のどこにでも戦争があってはならない。次の世代の同胞に、このような悲劇の起こらぬように申し伝えることこそ、貴重な体験をした我々シベリヤ抑留者の責務ではなかろうか。