◆「凍原の思い出」~あとがき◆

私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出~私のシベリヤ体験記』という一冊の本に仕上げました。当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るようにひたすら書き続けました。(挿絵も伯父が当時を偲んで描いたものです。)今は亡き伯父の思いを引き継ぎ、姪である私が顕して行きたいと思い公開しているものです。沢山の方々にこの体験記を読んで頂ければ幸いです。※今年は、以前この記事毎にコメントを下さった方とのやりとりを載せてみました。コメントを下さった「みーさん」は、ご家族と共に何年かロシアに滞在したご経験のある方です。私の伯父の日記の内容を膨らませ豊かにして下さり心から感謝して居ります。

◆「凍原の思い出」~あとがき◆

 

 

 一九五四年(昭和二十九年)三月十七日と記憶している。

 我々第七次帰還者を迎えに、日の丸の国旗を掲げた興安丸がナホトカ港を目指して静かに入港してきた。その日の海は波一つなく穏やかで、今でもあのときの情景はハッキリと瞼に焼きついている。港が眼下に見える収容所から、私は仲間と共にそれを眺めていた。今度こそ“嘘でない”ことを知った時の嬉しさ・・・・、涙が一度にどっと溢れ出た。

 このときほど日本の国旗のありがたさを強く感じた事はない。

 そのときソ連政府からは、ダモイする我々に対する餞別なのか?、被服と靴の交換があった。そしてそのとき食べた米の飯、その上には甘く味のついた小豆が少々乗せてあった。
 一同は慌しくトラックへ追われるように乗せられて港に向かったのである。港に着くと、我々を迎えに来ていた厚生省の職員との対面があった。それが済むと無我夢中で乗船したのである。船内には日本の児童の書画がところ狭しと貼られていた。やがて昼食となり、テーブルの上には日本酒の小ビン、赤飯、鯛の尾頭つきなど・・・私には八年振りで見る懐かしい日本食であった。そのとき私は一瞬、浦島太郎のような気がしたことを覚えている。

 早いものであれから三十年余年の歳月がアッという間に過ぎてしまった。

 私が逮捕されたとき、生後二ヵ月を過ぎて間もなかった長男も帰国した時は八歳になっていた。その頃はまだ増毛も鰊が獲れていて、息子を連れて浜の様子を見に行ったとき、突然「おじさん」と言われて少々面食らった。それと同時に子供には申し訳ない気がした。その息子も今は四十歳半ばとなって、私が帰国したときの年齢よりはるかに上回っている。今こうして、この「シベリヤ体験記」をまとめる機会に恵まれて何故かホッとしている。
 これを発刊するにあたっては、妻、息子夫婦、また娘婿であるT夫妻の協力を得た事に対し心から感謝しなければならない。
ふり返って見ると、死ぬほど厳しかったシベリヤでの生活と記憶も、今は遥か恩讐の彼方へと遠ざかって行く。

 残された余生を、私は趣味に生きひたすら孫達四人の成長を念じつつ暮らしたい。つたない、このささやかな小冊子の発刊を喜び、擱筆する次第である。

 「凍原の思い出~私のシベリア体験記」 山本 剛
 
 
みーさん
みーさん

「あとがき」を読ませていただき、涙が出てしまいました。本当に御帰還でき良かったですね。ご帰国後もたくさんの困難が御有りだったと思いますが、この手記を書かれたころは幸せなお暮らしだったと思います。このような貴重な文章を読ませていただき有難うございました。

 
mimicoco
mimicoco

みーさん♪ 毎回コメントして頂いて、本当に有難うございました。私も最後の方をupしているときに、何度、涙が滲んで画面が見えなくなったことか! 幼い頃、お世話になった伯父の体験だから尚のこと。。
伯父が体験記を遺してくれたので、みーさんとの出会いもあったかもしれませんね◎ 本当に感謝☆の気持ちでいっぱいです!有難うございました。

 

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