◆第二章「ラーゲル生活あれこれ」~朝鮮人学生と毒草◆
一九四七年三月、ウルガルでの最初の仕事だった砂採り作業中の事である。
私達の現場から少し離れた下流で、橋造りの仕事をしていたのは、若い朝鮮人学生連中の班であった。彼等は川底まで完全に凍結しているアムール川の支流のカ所に、氷を砕いて橋の脚を築くため、川底に穴を開ける基礎構築の作業をさせられていたのであった。無論、氷が融けて水が流れるようになってからでは、この工事はできないからである。
ある日、午後の作業が終わるころになって、俄かに彼等が騒ぎだしたのであった。私と組んで仕事をしていたY氏と、何だろうと、お互いに手を止めた。彼は“誰かケガでもしたのだろう”と言ったが、毎日の空腹で人の事に気を遣う余裕などなく、しゃべる事さえも億劫になっていた。我々日本人は皆知らぬふりをして、最後の仕事を続けていたのである。
しばらくして、監視兵が朝鮮人の班長と何か急を知らせる身振りで話していた。やがて彼等は仲間が五人位で、一人を運んでその場所からラーゲルの方へ向かって駈け出したのである。そのうちに監視兵が「カンチヤーイ」〈終了〉と急に大声を上げた。我々も「カレイ」〈朝鮮〉組も一斉に監視兵の所に集合したのである。
その時、彼等の仲間が言っていた事は、穴掘り作業をしていた一人が、川底に生えていたリンゴの匂いのする植物を食べて、急に腹痛を起こして苦しみ出したのだという。
私は薄暗くなった雪道を、疲れきった重い足どりで皆に続いて歩いた。心の中で、彼が無事に着いて命はとり止めたろうか、可哀相にと彼の安否を気遣ったのである。
帰営後に聞いたところによると、彼は苦しみながら途中で亡くなったという事であった。彼も我々と同様に、どんなにかひもじかったろうに、若い彼は故郷を想いながら懐かしさのあまり食べたのだろうと、その時はいろいろな思いが頭の中をかけ巡った。
しかし、若い彼の霊はきっと祖国の家族の元に帰って行ったであろうと、想像しながら心の中で冥福を祈ったものであった。