◆朝鮮人学生と毒草◆

私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出~私のシベリヤ体験記』という一冊の本に仕上げました。当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るようにひたすら書き続けました。(挿絵も伯父が当時を偲んで描いたものです。)今は亡き伯父の思いを引き継ぎ、姪である私が顕して行きたいと思い公開しているものです。沢山の方々にこの体験記を読んで頂ければ幸いです。※今年は、以前この記事毎にコメントを下さった方とのやりとりを載せてみました。コメントを下さった「みーさん」は、ご家族と共に何年かロシアに滞在したご経験のある方です。私の伯父の日記の内容を膨らませ豊かにして下さり心から感謝して居ります。

◆第二章「ラーゲル生活あれこれ」~朝鮮人学生と毒草◆

一九四七年三月、ウルガルでの最初の仕事だった砂採り作業中の事である。

私達の現場から少し離れた下流で、橋造りの仕事をしていたのは、若い朝鮮人学生連中の班であった。彼等は川底まで完全に凍結しているアムール川の支流のカ所に、氷を砕いて橋の脚を築くため、川底に穴を開ける基礎構築の作業をさせられていたのであった。無論、氷が融けて水が流れるようになってからでは、この工事はできないからである。

ある日、午後の作業が終わるころになって、俄かに彼等が騒ぎだしたのであった。私と組んで仕事をしていたY氏と、何だろうと、お互いに手を止めた。彼は“誰かケガでもしたのだろう”と言ったが、毎日の空腹で人の事に気を遣う余裕などなく、しゃべる事さえも億劫になっていた。我々日本人は皆知らぬふりをして、最後の仕事を続けていたのである。

しばらくして、監視兵が朝鮮人の班長と何か急を知らせる身振りで話していた。やがて彼等は仲間が五人位で、一人を運んでその場所からラーゲルの方へ向かって駈け出したのである。そのうちに監視兵が「カンチヤーイ」〈終了〉と急に大声を上げた。我々も「カレイ」〈朝鮮〉組も一斉に監視兵の所に集合したのである。

その時、彼等の仲間が言っていた事は、穴掘り作業をしていた一人が、川底に生えていたリンゴの匂いのする植物を食べて、急に腹痛を起こして苦しみ出したのだという。

私は薄暗くなった雪道を、疲れきった重い足どりで皆に続いて歩いた。心の中で、彼が無事に着いて命はとり止めたろうか、可哀相にと彼の安否を気遣ったのである。

帰営後に聞いたところによると、彼は苦しみながら途中で亡くなったという事であった。彼も我々と同様に、どんなにかひもじかったろうに、若い彼は故郷を想いながら懐かしさのあまり食べたのだろうと、その時はいろいろな思いが頭の中をかけ巡った。

しかし、若い彼の霊はきっと祖国の家族の元に帰って行ったであろうと、想像しながら心の中で冥福を祈ったものであった。

《出典》「凍原の思い出~私のシベリア体験記」 山本 剛
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