◆シベリヤまで Ⅷ◆

私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出~私のシベリヤ体験記』という一冊の本に仕上げました。当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るようにひたすら書き続けました。(挿絵も伯父が当時を偲んで描いたものです。)今は亡き伯父の思いを引き継ぎ、姪である私が顕して行きたいと思い公開しているものです。沢山の方々にこの体験記を読んで頂ければ幸いです。※今年は、以前この記事毎にコメントを下さった方とのやりとりを載せてみました。コメントを下さった「みーさん」は、ご家族と共に何年かロシアに滞在したご経験のある方です。私の伯父の日記の内容を膨らませ豊かにして下さり心から感謝して居ります。

◆第一章「シベリヤまで」~シベリヤまでⅧ◆

 

  ハバロフスクのペルセルカでの休養も四日ほど経過した。確か二月の初め頃だったと思う、突然寝ていたところへ「フスタワイ」〈起きろ〉の甲高い声と共に靴音がした。我々も近々「ラーゲル」〈強制労働収容所〉送りを話し合っていた矢先だったので、それほど狼狽はしなかったものの、寝込みをおそわれた感じで些か腹立たしかった。何もえらんで真夜中に・・・。やがてドアが開いた。我々は声をひそめて、前からドヤドヤと玄関に続いて出た。突き刺さるような寒さで、眠気が一ぺんに覚めてしまったのである。

 我々は三〇名ほどの単位で、トラックに 分乗させられた。出発の号令と共に、トラックはエンジンの音も高々と前進したのである。トラックは全部で七台で、監視兵は各台に一名ずつ、長い毛皮のシューバーに身を包み、運転台を背にして自動小銃をかかえて立っていた。車は真っ暗で平坦な雪原を曲がりくねって走った。前進方向に面して座っているので、皆顔を伏せて眼は閉じたままであった。我々はあぐらをかいて座ったが、時間がたつにつれ窮屈と足のしびれがひどく、まるで拷問にでもあっている感じだった。道路の両側の樹々の枝が、うずくまっている頭に容赦なくぶつかるのだった。それを庇うためにも頭は上げられなった。私はあぐらは元来苦手である。あまりの苦しさに耐えかねて、うめき声をかすかに上げながら思いきり頭を上げた。その時、ふと見上げた夜空には北斗星が瞬いていた。また、後に続く車のヘッドライトの光が、長く二筋に後を追って駆けて来るのが見えた。私はあまりの感傷的な光景に、しばし囚われの身である自分を忘れて、ひたすら心は樺太に残っている家族の許へ走ったのである。

 トラックは夜通し寒風を切って、何処をどう疾走したのか、夜が白々と明ける頃、黒ずんだ「タイガー」〈原始林地帯〉の続く山間にある、白壁の丸太小屋が点在する部落に着いた。

 車は公会堂の前で止まった。トイレタイムである。間もなく「ザフトラカ」〈朝食〉の凍った黒パン(五〇〇グラム)の配給があった。誰もが貪るようにかじりついたのである。監視兵はバケツに水を一杯運んで来て、部屋の中央にドカッと置いた。周囲の様子を見ていたが飲んだ者は少なかった。これが熱いスープだったら・・・・、と一人で想像して喉をならしたものである。

 トラック護送は再び開始された。しかし、一体ここはシベリヤのどの辺なのか?全然見当がつかなかった。また、どの位の距離を走ったのか?、私の感じでは何十キロ、いや何百キロか想像もつかなかった。あらためてシベリヤ、タイガーの広大さを、しみじみ身を以って知らされた思いであった。
 午前中に少しづつ寒さも和らいできた。真っ白で広大な地平線、そして「ボルショイ・タイガー」〈大原始林地帯〉を強い日射しの中で見たとき、私は満州の広野を想像した。トラックが一時間ほど走って山の中腹にさしかかった頃、遥か遠くに「ラーゲル」かと思われる高い塀と、高い四隅の櫓が見えてきた。一瞬、私は故郷大泊の養狐場を見るような錯覚をおぼえた。

 午後三時過ぎ真冬の日暮れは早く、夕陽を見ながら「イズベストコーワヤ」という町の郊外にある「ラーゲル」に到着したのである。実に長い苦しい旅であった。
ここはかなり大きな収容所で、五~六百名は収容できそうだった。高い塀の内には、いくつもの白壁のバラックが建っていた。

 ここでの休養は、二、三日であった。これまでの毎日は空腹であったが、ここでの二日間は三度の正規のの給食を受けた。しかし、一日七五〇グラムの黒パンと三度のスープだけでは、到底大人一人の体力を保つことは無理であった。無論、煙草は吸えず、食事の合図だけが何よりの楽しみであった。そして誰言うとなく、このスープを「道灌汁」と呼ぶようになった。例の太田道灌の「実の一つだに無きぞ悲しき」とは・・・・、全くそのとおりだった。

 真夜中に再び「ヤポンスキー、ダモイ」〈日本人、帰国〉と叩き起こされて、最終目的地であるウルガルという民家も疎らな「バム」〈バイカル・アムール〉鉄道建設の地域にある「ラーゲル」へ到着したのは、翌朝すっかり夜が明けてからであった。

 ウルガルの収容所に着いたのは二月の中旬であった。家を離れて三ヶ月たったが、何の連絡もとれなかった。私が元気なことも、シベリヤのここに居ることも知らず、家族はどんな気持ちでいるだろうと思うと、大声で絶叫したいような心境になったものである。ここウルガルはシベリヤ鉄道と接続する重要な分岐点でもあった。すなわち、バム鉄道とはタイシェットから日本海に面したソフガーワニまでのソ連極東軍事鉄道で、我々囚人はその重要な労働力として、そこに投入されたのであった。その周辺には、多くのラーゲルが設置されていることが次第に分かってきた。

~ to be continued ~

《出典》「凍原の思い出~私のシベリア体験記」 山本 剛
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