◆シベリヤまで Ⅶ◆

私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出~私のシベリヤ体験記』という一冊の本に仕上げました。当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るようにひたすら書き続けました。(挿絵も伯父が当時を偲んで描いたものです。)今は亡き伯父の思いを引き継ぎ、姪である私が顕して行きたいと思い公開しているものです。沢山の方々にこの体験記を読んで頂ければ幸いです。※今年は、以前この記事毎にコメントを下さった方とのやりとりを載せてみました。コメントを下さった「みーさん」は、ご家族と共に何年かロシアに滞在したご経験のある方です。私の伯父の日記の内容を膨らませ豊かにして下さり心から感謝して居ります。

◆第一章「シベリヤまで」~シベリヤまでⅦ◆

 駅の構内には、すでに黒塗りの囚人専用の自動車数台が、線路の傍で待っていた。ここはもうまぎれもなく、極寒の地シベリヤである。

 よく晴れあがっていたせいか、零下三〇度は超えていたろう。着ていたオーバーの上から、寒気が容赦なく突き刺さった。

 監視兵は点呼しながら三〇名位ずつ車の中へ追い込んだのである。その時、私はかなり気持が動揺していたのか、ただ機械的に真っ暗な車の中に入れられて腰を下ろした。ふと気がついたとき、今までのこと、これから先の不安が頭の中を激しく交錯した。

 ここはソ連極東地区の要衝で、軍事、経済、文化、芸術などのすべての中心となっている大都市である。いま思えば、駅の附近の様子などを少しでもこの眼でしっかり見てきていたら、後日に話しの種になったであろう、と残念に思っている。

 やがて車は平坦な道を三〇分ほど走って、着いた所は「ペルセルカ」〈中継所〉であった。全員が整列して点呼を受けた頃は、夕陽が真っ赤に映えていた。その時、朝鮮人の一人が我々に「川の向こうの山の灯は中国だよ」と、懐かしそうに言っていたことを思い出す。

 ペルセルカは高い板塀に囲まれていた。四隅には、その倍以上もある高さの丸太造りの見張り櫓が建っていた。そこには衿に真っ白い毛皮のついたシューバーを着た、監視兵の姿が見えた。シューバーの丈は引きずるほどの長さで、袖で手をすっぽり被うようにし、自動小銃を我々の方に向けて立っている。その姿を見た時、私にはさらながら凍てついたロウ人形のように見えたのである。

 奴等の言う「ペルセルカ」の意味も分からず、監視兵の誘導で一間ほどの薄暗い獄舎の廊下を過ぎて、我々七名は右側の十畳ほどの大部屋に入れられた。その時、私はその部屋の上段にあぐらをかいて座っている日本の将校達の姿を、戦後初めて見たのである。そこには憲兵中佐をはじめ尉官の将校が六人、当時の夏物の外套を着たまま、座っていた。ふと見ると、下段の薄暗い隅にポツッと膝を抱えるようにして座っている老将校の姿を見たのである。彼は憲兵大佐であった。将校達は、我々を見ると懐かしそうに寄ってきて話しかけた。我々は樺太から送られて来たことを告げると、自分達は当時の関東軍の憲兵司令部の者だと言っていた。私はそれを聞いた時、なぜか胸が熱くなったのである。

 一時間位して監視兵が確認に来た時、私は素早く「マホルカ、ダワイ」〈煙草をくれ〉と言って、私物の入った風呂敷包を持ち上げた。すると奴はのぞき窓から、好奇的な視線を向けてきた。私は風呂敷包を広げて、持っていた服を出して見せた。奴は何も言わず、了解したような顔をして去って行った。しばらくして、ロシアの新聞紙にマホルカを二包入れて持って来た。それと引きかえに私は服を渡したのであった。

 私はこの部屋にいれられて、新たに受けた感動と、初めてロスケと物々交換が成功した喜びもあって、得意気に居合わせた皆に振舞ったのである。自分自身も一ヶ月以上煙草は口にしていなかったし、部屋の一同は思いもよらず一服吸うことができた満足感で、急に皆の暗い青白い顔にもしばらく振りで笑顔が戻り、“うまい、うまい”と言うつぶやきが煙りとなって、もうもうと薄黒い白壁に拡がった。その時私は人助けでもしたようなきがして、しばし優越感に浸ったのである。

~ to be continued ~

《出典》「凍原の思い出~私のシベリア体験記」 山本 剛
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