◆シベリヤまで Ⅸ◆

私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出~私のシベリヤ体験記』という一冊の本に仕上げました。当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るようにひたすら書き続けました。(挿絵も伯父が当時を偲んで描いたものです。)今は亡き伯父の思いを引き継ぎ、姪である私が顕して行きたいと思い公開しているものです。沢山の方々にこの体験記を読んで頂ければ幸いです。※今年は、以前この記事毎にコメントを下さった方とのやりとりを載せてみました。コメントを下さった「みーさん」は、ご家族と共に何年かロシアに滞在したご経験のある方です。私の伯父の日記の内容を膨らませ豊かにして下さり心から感謝して居ります。

 

◆第一章「シベリヤまで」~シベリヤまで Ⅸ◆

 

 この収容所には、日本人一グループ、朝鮮人三グループ、中国人一グループと、若干のロシア人が新たに収容された。長い行程の護送であったため疲労と空腹がひどく、話すこともだんだん嫌になってきた。シャワーはウラジオで一度、ウルガルで一度の二回だけだったので、日本の風呂が無性に懐かしく思い出された。

 この頃から私は月、日を意識することすらいやになり出していた。無論、カレンダーなどあるわけもなし、ただ収容所の生活に少しでも馴れることに必死であった。

 ラーゲルの中は自由に歩き回れるので、ペルセルカとは違い、物珍しさと、自分なりの開き直りもあって気楽に、さも知人でも探しているような素振りで、あっちこっちを覗き歩いたものだった。監視の厳しい塀の中は囚人の部落で、正面の大きな門の上には、殆どのラーゲルでたくさんの赤旗が揚げられ、木製の観音開きの扉の二間ほどは格子造りになっていて、ここからだけが唯一娑婆が見えるのである。とは言っても山の中でのことである。すぐ横は狭い小さな通路になっていて、監視兵の詰所もあったから無用の者は近寄れなかった。詰所の前には一メートルほどの赤錆びたレールが、軒から無造作に吊り下げてあった。これは起床から始まって、総ての合図に使われていたものである。その様子は今でもはっきりと脳裏に焼きついている。

 ラーゲルの中のメーンストリートの両側には、ふつうの教室三個分を合体したような大きなバラック、「カントーラ」〈事務室〉、「クリトール」〈文化部〉、「スタローヴヤ」〈食堂〉、「キオスク」〈買店〉、「バーニヤ」〈浴場〉、「カルツエル」〈懲罰室〉、「カプチョルカ」〈食料配給所〉、被服庫、野外舞台、診療所、などの古びた白い落壁の見える建物が点在し、通路には到る所に檄、ノルマ達成率、漫画などの〈周知立看板〉が設けられてあった。売店といっても、ロスケ専用に等しく、我々には全く無用の長物だったのである。

 四、五日休養をして体調を整えた。三月の始めに、ハバロフスク、イルクーツク方面のラーゲルから、日本人、中国人、朝鮮人などの混成で百名ほどの移送部隊が入って来た。彼等もそれぞれのグループに分散された。朝鮮人達のグループは、北鮮組(主に新義州からの中学生)樺太組、韓国組の三グループで、我々のバラックには中学生組の一部で三〇名ほどの者が合流した。バラックは人種別にそれぞれ別棟であった。

 間もなくラーゲル専用の被服が支給された。我々が日本から着用してきて、これまで寒さから身を護ってくれた衣服、持ち物は全部その時に没収されて、再び見ることはできなかったのである。

 支給されたものは、先ず敷布団、枕、シャツ、ズボン下、綿の入った服上下、冬の帽子、フエルトの防寒靴、「バルジャンキ」〈足巻布〉、手袋、毛布、「シューバー」〈毛皮外套〉などであった。これらの物はすべてロスケの軍隊の払い下げの物品で、かなり薄汚れていた。私の小さな体型には、それらの衣服は総てダブダブであった。ロスケの衣類が日本人に合うはずもなく、諦めなければならなかった。これでやっと、私には安住のねぐらができたと、その喜びをひと時味わった。いよいよ私は、これで立派な「アラボーチ」〈労働者〉に仕上がったのである。

 これまでの記録は、私が「ユージノサハリンスク」〈豊原)からシベリヤに送られて来て、目的地の「ウルガル」に到着するまでの、私の生きざまを書いた何ページかである。日がたつにつれ、寒さと飢餓にさいなまれ、日に日に虚脱感と思考が失われて行く自分に、ただただ恐怖を覚えずにはいられなかったのである。

~ to be continued ~

 

《出典》「凍原の思い出~私のシベリア体験記」 山本 剛
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